語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-11

« 123456789101112131415161718192021222324252627282930»

[--------]  スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[2018-07-27]  地球の測り方  

人類が「もしかして地球って丸いのでは?」と気づいたのはいつでしょうか。それは古代ギリシャの時代です。紀元前4世紀に活躍した哲学者アリストテレスは地球球体説を支持し、その論拠を次のように述べています。

 ・南の地方で見えるのに北の地方では見えない星がある。
 ・月食は太陽光が生む地球の影だと考えられ、その影が丸い。

現代の我々は、近世の航海者コロンブスによる新大陸発見のエピソードに関して、地球が平面で海の果てが滝のようになっている図を教科書等で見た覚えがあると思います。

「中世の人々は海の果てにいけば落ちてしまうと信じていたが、コロンブスは勇敢にも実際に航海に出て、水平線の遥か先に大陸が存在することを実証してみせた」などとドラマチックに語られることもあります。もちろんコロンブスの冒険心は偉大です。しかし彼よりも約1000年前に、人類はただ観察と論理のみによって「地球が丸い」という知識をすでに得ていた、という事実も同じくらいドラマチックだと思うのです。

続きを読む ≫

[2017-07-25]  露と山  

「人間」vs「自然」というのは多くの場で持ち出される対比構造であるし、もはや陳腐とさえ言えるかもしれない。特に近代における工業の発展に伴って、公害や環境問題の文脈において語られることの多かったテーマであり、環境保護の理念がある程度浸透した現代においては、改めて強調するまでもなくその二項は人々の頭の中にすでに備わっているに違いない。

だが、人間vs自然の対比は現代においても依然として本質的な議論を内包し、ある意味では人類にとって永遠の未解決課題として残っている。そもそもの問題は、人間と自然が完全に二分できないということに端を発する。我々が自然という語を用いるときに想定する動物や植物と同じ細胞によって構成され、同じ生命メカニズムによって日々の生活を営むのが人間であるという点に、根本的な難しさがあるのだ。

芋の露 連山影を正しうす


という飯田蛇笏の有名な句がある。

続きを読む ≫

[2014-03-01]  物質と精神、どっちが大事?  

僕自身の思想を一言で表すならば、「唯物論を基調としながらも観念論を志向するが、究極的には不確定性を謳歌する」というものです。もちろんこれだけでは抽象的すぎてわかりづらいと思うので、順を追って説明いたします。

まず唯物論vs観念論というのは哲学における最も大きな対立軸の一つだと僕は考えていて、どういう議論なのかをざっくり要約すると「この世の基本は物質か、それとも精神か」という話です。科学の考え方が一般的となった現代においては、前者のほうが理解しやすいのではないかと思います。宇宙にある全ての存在は分子、原子、そしてそれより細かい粒子や素粒子によって構成されており、人間の脳もまた例外ではなく、精神とはあくまで脳が生み出す高次活動である、つまり「物質あっての精神」という見方です。

一方で、「精神あっての物質」だと考えるのが後者です。どういうことかというと、例えば今自分の近くにある適当な物に触れてみてください。仮にペンだとしましょう。しかしそのペンは、本当にそこに存在すると言いきれるでしょうか? 目に見えて手に触れることができても、それは自分がそう認識しているだけの話で、視覚や触覚の証明にはなりますが、物自体の存在証明にはならないのです。有り体に言えば幻覚かもしれないということです。他の人もペンを認識してるのだから幻覚ではないという反論があるかもしれませんが、この世の全員が幻覚を見ているかもしれません。あるいは“他の人”そのものが自分の見ている幻覚という可能性すらあります。突きつめて考えてみると、実はこの世界には自分の精神以外に何一つ確実なものが存在しないのです。

続きを読む ≫

[2014-01-20]  少女と首飾りの思考実験  

この前、ふと次のようなことを考えた。


----------------

ある少女が、母親から首飾りのプレゼントをもらったとしよう。

小さい銀色の玉が100個連なった簡素な作りのもので、しかも玉には1~100までの数字が刻まれている。(正直デザイン的にはどうかと思った少女だったが、)大好きな母親からのプレゼントであり、彼女はそれを大切に扱った。

しかしある日、ふとしたはずみで玉が外れて、床に散乱してしまった。すぐに回収したが、99個しか回収できず、「1」の番号を刻まれた玉がどうしても見つからない。少女は仕方なく、業者に頼んで同じ素材の同じ大きさの「1」と刻まれた玉を作ってもらい、それを足して元通り100個からなる首飾りにした。1個だけ最初とは違う玉が入ってしまったけれど、これはお母さんがくれた大切な首飾りであることは変わらないのだ。

続きを読む ≫

[2013-07-15]  学習と進化  

人間が持つ能力の中で最も重要なものはやはり「学習」ではないかと思う。何かに成功した、あるいは失敗したという記憶を、次の試行の際に生かす。これによって人間は、最初のうちはうまくいかない物事であっても反復するうちに達成へこぎつけるようになるし、そして一度成功を収めればその方法を踏襲することで、その後も目的を達成し続けることが可能になるのである。

それは意識的なものもあれば、無意識的なものもある。無意識的な学習として僕自身が「ああ、俺の脳が学習してたんだな」と後から強く自覚することがあるのは、たとえば車の運転である。昔、免許取り立てだった頃を思い出すと、道を走る分には最初からけっこう得意だったのだが、恥ずかしながら車庫入れがさっぱりだった。何度も入れかけては出してを繰り返して、ようやく車庫に収まる、という具合だったと記憶している。

しかし今では何の苦労もなく、一回でスッと車庫に入れることができる。どの位置からどの角度で入ればいいかがすぐわかるのだ。しかもそれは「あの位置がダメだったから」「あの角度がダメだったから」と具体的に一つひとつ覚えているわけではないのに、感覚として何となくわかってしまう。この「何となくわかってしまう」というのは、べつに自分が急に予知能力を身につけたわけではない。昔何度も行った車庫入れの経験の一つひとつが、意識ではなく無意識の記憶に蓄積されており、それらを総合して脳が適切な判断を下しているのだろう。まさしく無意識的な学習の成果なのである。

続きを読む ≫

[2012-08-02]  表現の意義  

「想像はすべての芸術作品に勝る」とは、最近僕がもっとも強く感じていることだ。趣味で絵を描くことがあるが、そのときに改めて認識させられるのは、心の中に浮かんでいる情景を表現することの難しさである。

描く前は「こんな風景を描こう」「あんな雰囲気を出そう」といろいろ想像を膨らませるのに、いざ紙に描いてみると、想像していたものがまるで表せていない。これはもちろん、自分の技術不足というものが第一にある。けれどもそれを差し引いて尚、そこには芸術という表現行為が持つ宿命とでもいうべき性質が象徴されているように思うのだ。

確かに技術を磨けば磨くほど、思い描いた情景により近い絵が描けるようにはなっていくだろう。だが、たとえどれだけその表現力を高めようとも、想像した情景を100%の精度で再現することは、結局のところ不可能であろうと思うのだ。それは必ずしも芸術に限界がある、ということではない。むしろ人間の想像というものがそれほどまでに無限大の広がりを有しているということであり、故に芸術はその全てを表現できないという話なのである。

続きを読む ≫

[2012-01-16]  アブダクションの超簡易モデル  

「a+b=x+y だからといって、a=x, b=y とは限らない。」

これは数学的には当たり前のことだ。1+6=7だが、3+4=7でもあるし、2.3+4.7やπ+(7-π)だって合計は7だ。つまり「答えは7ですよ」と言われても、そうなる過程の式を一つに特定することはできない。

しかし実生活においては、我々はしばしば「a+b=x+y なら、a=x, b=y でしょ、どうせ。」という思考をしてしまう。

たとえば二人暮らしの夫と妻がいたとする。夫は冷蔵庫にお気に入りのプリンを入れていた。夜仕事から帰ってくると、朝はあったはずのプリンが冷蔵庫から無くなっていた。夫はこう考えるだろう。「妻め、食べやがったな」と。つまりは以下の等式を、瞬時に構築したわけである。

【妻が家にいる】+【妻がプリンを食べた】=【プリンが消えた】

続きを読む ≫

[2011-11-12]  語りえぬものの追究  

2010年代に入ってからのエロゲで、現時点で最大の傑作として捉えておきたい作品がある。ケロQの『素晴らしき日々~不連続存在~』である。単純にシナリオ展開やキャラクターの個性、そして絵や音楽等の演出といった点でも秀でており、それだけでも十分に一級品たりえる素質を持っているのだが、それをさらなる高みへと昇華させたものこそが、作品の根底に流れる一大思想である。作中でも何度も言及されるその思想の提示者こそ、20世紀の天才哲学者とも称される「ルートヴィヒ=ウィトゲンシュタイン」だ。

エロゲには哲学的テイストを内包した作品が少なからず見られるが、これほどまでに一人の哲学者の思想をかみくだき、消化し、そして物語という地平で新たに開花せしめたエロゲが存在するだろうか。いや、エロゲに限らず、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』を世に出してから今までのおよそ百年の間、彼の哲学を完全に体現した物語というのは無かったと言っていいのではないかと思う。無かったというよりはむしろ「ありえない」というべきだろうか。なぜならばウィトゲンシュタインの思想に匹敵するものとは、いわば「この世に存在する無数の物語の、その全て」だからだ。ゆえに、その部分集合である単体の作品では論理構造的にどうやっても表現しきることはできない。だが『素晴らしき日々』は、それをなそうとした物語なのだ。厳密にはこの作品にも結局それは不可能である。しかし、「この世の全ての物語への架け橋となる物語」を描くことである意味その目的を達成したと言える方法論は、まさしくウィトゲンシュタインがとった哲学的手法の再現であった。この見事なまでの作品理念に対する感動、そして物語が教えてくれるウィトゲンシュタイン思想の価値と意義について、順を追って考察していきたいと思う。

続きを読む ≫

[2011-09-18]  複素平面モデルから考察する2次元趣味  

僕のようにアニメやエロゲを趣味とする人間は、えてして世間から奇異の眼差しを向けられることがある。もちろんアニメに関しては昨今、かなりイメージが向上しているように思う。それに伴ってエロゲもまた認知度が高まり、昔ほどの偏見はなくなってきているようだ。だが、依然として胸を張って公言しにくい趣味ではあるだろう。

僕自身こういったいわゆる2次元趣味が高尚とまでは思っていないが、もう少しまともなもの、それなりに価値のあるものとして世間に認識されてもいいではないかと思っている。そしてそのためには、2次元趣味が我々人間の現実生活に対してどのようなメリットをもちうるかを端的に説明できるモデルが必要ではないかと考える。以下はその一案である。(まあどう見ても屁理屈ではあるが。)

現代日本において隆盛を誇っているアニメ、マンガ、ラノベ、そしてエロゲ。こういったものは上でも書いたようにしばしば一般に「2次元」と称され、たとえばそこに登場する可愛い女性キャラクターは「2次元美少女」ということになるし、そういう作品が好きである人間は「2次元ヲタク」と呼ばれるのは周知の事実であろう。

続きを読む ≫

 | ホーム | 


 

 プロフィール

柾葉 進  (まさば すすむ)

 ブログ内容

哲学、歴史、文学、評論等。アニメやエロゲ(美少女ゲーム)を切り口にして論じたものが多数あります。

 ブログ案内

 全記事リスト

全ての記事の一覧

 ブログ内検索

 連絡先

pantheratora2369
☆zoho.com
(☆を@に変えて下さい)

 カテゴリ

 年別アーカイブ

 新刊情報

 
● 「東大医学部卒が語る 医師国家試験多浪体験記」

 準新刊情報

 
● 「私たちが選挙に行く意味は本当にあるのだろうか?」
 
● 「Boys,be unprecious!」

 刊行書籍

 
● 「『永遠の0』と『魔法少女まどか☆マギカ』の類似点に関する考察」(2015年)
 
● 「美少女ゲーム作品にみるニーチェの思想」(2015年)

 RSSリンク

 

FC2Ad



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。