ニヒリズムとどう向き合うか

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タバコを吸う主人公というのは、美少女ゲームにおいては珍しい気がする。 学園を舞台にした作品においては特に、である。主人公が学生であるにも関わらずタバコを吸っているということは、彼がいわゆる不良であるとか、あるいはそこまでいかなくとも世間や大人といったものに多かれ少なかれ反抗的であるとか、いずれにせよ不真面目なイメージがどうしても付随してしまう。

元来、美少女ゲームというのはシミュレーションゲーム、すなわちプレイヤーが主人公と同じ視点に立って、ゲーム内で起こる出来事を追体験するという趣旨のエンタテインメントとしての性質を持つ。そこではプレイヤーが自分と主人公を重ね合わせるという過程が必要となるが、主人公が妙に個性的だったり、あるいは好感のもてないキャラだったりするとプレイヤーは主人公に完全に共感できず、結果として物語に入り込むことができない。

それが恋愛物語ならなおさらである。共感できない主人公の恋愛の過程を画面越しに読み進めるなんていうのは、興味のない知り合いの恋愛話を延々と聞かされるよりもたちが悪い。だからこそプレイヤーの分身となる主人公には、あまり特徴のない、あたりさわりのない、無難な人格が好んで用いられてきた。厭世的で、毎日学校の屋上でタバコを吹かしている……などというのは、恋愛シミュレーションゲームの主人公にはふさわしくないのである。
だが、そういった固定観念もだんだんと過去のものになりつつある。 いつしか美少女ゲームは単なる恋愛シミュレーションの範疇を越え、多様なシナリオや演出を取り込み、小説や映画に並びうる芸術の一形態として進化を遂げてきた。(少なくとも一部の作品については。)その変化を象徴するものの一つが、“主人公の個性獲得”であろう。美少女ゲームは、「プレイヤー」が主人公と一体化してシナリオを追体験していくというゲームとしての性質を残しつつも、一方で主人公と完全には重ならない存在として、作品の外から物語を鑑賞するという、小説における「読者」のような視点で読むものとしての価値を高めつつある。 そこでは、主人公は必ずしも没個性的でなくてもいい。むしろ主人公の個性を削ることは、作品の多様性そのものを削ることになる。小説にいろんな性格の主人公がいるのと同様、美少女ゲームにもいろんな主人公がいて然るべきなのである。

「プレイヤー」から「読者」へのシフト。そしてそれに伴う主人公の個性獲得。これこそが美少女ゲームの現在に至る大きな流れの一つであり、また美少女ゲームを恋愛シミュレーションの枠から解放し、多彩なストーリーを表現可能にせしめた直接の要因であるとも言えるだろう。

2003年にLeafから発売された美少女ゲーム、『天使のいない12月』。……この作品の主人公、木田時紀は非常に個性的である。

無気力。厭世的。学校の屋上でタバコを吹かすのが日課。そんな彼が、気が弱くてクラスで馬鹿にされている栗原透子と、あるきっかけで身体の関係をもってしまうことから話は始まる。それを皮切りに様々な出会いや出来事を通して、彼の停滞していた価値観には徐々に波風が立ちはじめるのだが、その出会う相手というのもまた個性的な人柄の持ち主だ。

本作には5人の女性ヒロインが登場するが、主人公にとっても読者にとっても一番印象に深く残った出会いは、やはり須磨寺雪緒ではないだろうか。学園随一の美貌と優秀な成績を兼ね備えながらも、生きていることに何の楽しみも喜びも感じないと言う彼女。以前コンクールで受賞したピアノも「意味がない」とやめてしまい、放課後の教室でアコースティックギターを爪弾く彼女の空虚な視線に、主人公は言いしれぬ恐怖を抱く。

この二人の相対関係は非常に興味深い。何をしても充実感が得られない主人公と、優等生で容姿や才能に恵まれている雪緒は一見対照的なようでありながら、実は雪緒も主人公と同じ、いやそれを越える虚無感の中で生きており、それを知った主人公は出会った当初、まるで動揺を隠せないでいる。しかし人生に対して同種のむなしさを感じている二人にはどこか通じ合うものがあったのだろうか、徐々にお互いに惹かれあったのち、最後は一緒に……という衝撃の展開を辿る。

こういった決してハッピーエンドと言い切れない結末、あるいは作品全体を通して漂う虚無的あるいは悲観的な雰囲気から、この作品は「鬱ゲー」に分類されることが多々あるようだ。

しかし、である。作品を終えてみて、自分はこの鬱ゲーという評価に対して疑問を抱かざるをえなかった。果たしてこの『天使のいない12月』は、鬱ゲーだろうか?

たしかに、明るい話ではない。だから暗い話全般を指して鬱ゲーと称するなら、この作品をそう呼ぶのは間違ってはいないだろう。だが鬱ゲーというレッテルを貼ることによって、「この作品をすると鬱になる」とか「気持ちが沈む」とかそういうイメージばかりを先行させるのは、少し違う気がするのだ。

結論から先に言おう。自分はこの作品を読んで、救われた心地がしたのである。なんとなく眺めただけでは「暗いなあ」で終わってしまう。だから我々は、受け身な「プレイヤー」としてではなく「読者」として、能動的にこの作品を読み解いていかねばならない。

とはいえ、この作品は比較的単純な構造になっていると言える。すなわちこの作品を理解できるか否かは、ひとえに「主人公の内面を理解できるか否か」の一点にかかっているということである。無気力で、厭世的で、何もすることもなくただ毎日屋上でタバコを吸っている主人公の内面など理解できない、と思うだろうか? 理解できない、という人もいるだろう。たとえば「この主人公と違って、自分には生きがいがあり、毎日が充実している」と胸を張って言える人は、すごく幸せだなと思う。しかし、もし仮にその生きがいを失ったら、と考えるとどうだろう。今その人には偶然生きる意味を感じられるものがあるだけで、それはいつか消えてしまうかもしれない。

そもそも「生きる意味」という概念自体が、儚くて空虚な幻想に過ぎないと考えたことはないだろうか? 特に科学的・論理的な思考が蔓延した現代において、誰もが一度はその結論に到達していておかしくないのだ。 生きる意味なんて実はどこにも存在しないのだと、私たちはうすうす感づいている。しかしどこかでその思考をストップして、日々の生活に意味を見出している……見出したつもりでいる。

受験に合格するため。 良い会社に就職するため。 仕事で立派な業績を残すため。

大なり小なり、当面の目標というのは誰でもそれなりに持ち合わせている。だが、その先は? その目標を達成して、それで? ある程度は説明できたとしても、私たちは必ずどこかでその思考を打ち切らざるをえない。なぜか。その先、その先、と突き詰めて考えていけば、辿り着いてしまうからだ。「死」という答えに。「全ての人間はいずれ死ぬ」という絶対の経験則が、人生における究極の結論として最後に居を構えているからだ。

だから、論理的な思考だけでは人間は破綻する。にもかかわらず私たちが普段精神の危機に陥らずにすんでいるのは、どこかの段階で非論理的なものの介入を許しているからだ。 いわゆる宗教や信仰の必要性というのも、その点と深く関わっているように思う。死後の世界や生まれ変わりなどを仮定し、それを強く信じることによって、死に収束してゆく思考をその先に向けることができる。あるいは「こう生きれば正しい」という一定の指針に従うことによって、思考がそれ以上の深淵に陥らないようにする防波堤としての意味もあるのかもしれない。

かつての時代はそれで良かった。ところが世界の成り立ちを説くものとして、「宗教」にとってかわって「科学」が揺るぎない地位を得た現代においては、それはもはや必ずしも通用しない。もちろん、科学の発展によって人間の生活が飛躍的に向上したことは事実だ。 だが科学を信奉するあまり、論理的な思考で全てを説明しようと意気込み、その過程で宗教的・超自然的な思想を迷信だなんだと追いやってしまった後で、我々現代人はふと気付く。今まで精神の死への直結を防いでくれていた「非論理的なもの」が消えてしまっていることに。

例えるならば、科学という武器を大量生産するために城壁をきれいさっぱり取り壊してしまったようなものだ。だから現代人が自らの精神を守るためには、武器を手に攻め続けるしかない。ただひたすら走り続けなければならない。立ち止まって思考の深淵に陥ってしまえば、そこには「死」が待ち受けている。深く考えないように、深く考えないようにと念じながら、とりあえず目の前に設定した目標を達成することに意味があると信じ、その目標に向けて努力することで一時的な充足感を得る。自己を守る確かな城壁が実は何もないことの不安を、忙しさの中でごまかし続ける。こんな生き方むなしいだけだ、と感じる人もいるだろう。 そしてこの『天使のいない12月』の主人公も、その一人なのではないか、私はそう想像する。

学校の屋上で煙草を毎日吸っているのは、彼が不誠実だからではない。 むしろ彼は、誠実に生きようという思いが誰よりも強いのだと思う。中途半端な生き方はしたくない。一時の充足を求めて何になるのか。本当に意味のあること。普遍的な幸福。彼はおそらくそういったものを望んでいたのだろう。 それはまさに「天使」のような、すなわち恒久的な、生の祝福の象徴と言いかえられるかもしれない。

だが、現実には「天使」なんか存在しない。 少なくとも現代社会には、すがるべき永遠や真実なんてどこにもありはしないのだ。だから、主人公は無気力に生きるしかなかった。 それは現代人が無意識のうちに抱え込んでいる喪失感であるとも言えるだろう。

『天使のいない12月』という作品の持つ重みは、そこに端を発する。無気力で厭世的な主人公の態度や心情を、理解できないと遠ざけるのではなく、思春期に特徴的な悩みや反抗心だとして安易に型にはめて鑑賞するのでもなく、現代社会を生きる者なら誰もが多かれ少なかれ内包している不安定さの象徴として、彼の抱く虚無感を、一度は自分の中に受け入れなければならない。この作品の読解は、そこをもって始まるのである。

そしてその先の解釈は、読者次第ということになる。彼は、最後に救いを得られただろうか。 すがるべき永遠や真実を見失った現代人にも、希望は残されているのだろうか。

僕自身は、救われたと思った。 それこそ手放しで喜べるエンディングなど一つもなかったが、どのエンディングにも、生きることへの肯定的な視点を感じ取ることができた。だからこそ、「鬱ゲー」という評価はどうにもふさわしくない気がするのだ。 むしろ鬱ゲーとは正反対に位置する作品ではないだろうか。


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キリスト教徒にとっては、クリスマスというのは宗教上の最大のイベントだ。だからかつての西洋には、12月になると天使が現れていたかもしれない。

では、科学が常識を築きあげてしまった現代社会においてはどうだろう? 天使も、神様も、死後の世界も話半分にしか信じられなくなった現代の人々が迎えるのは「天使のいない12月」だ。そこには永遠や真実を求めながら、そんなものがどこにもないと気付いてしまった現代人の虚無感だけが漂っている。

ただ、この作品の中で、特に脳裏に焼き付いて離れないシーンが一つあり、それはヒロインの一人、榊しのぶのエンディングで公園に積もった雪の上に二人で寝ころび、空から次々と降ってくる雪を黙って見つめるシーンだ。シナリオの上では特に不完全燃焼感の強かったエンディングではあるが、その場面だけは、「天使のいない12月」全体を象徴しているような気がして、強く印象に残っている。世の中の何もかもに価値を見いだせなくなった主人公の枯れた瞳に、しんしんと降り続く雪の白さはどう映っただろう。

この作品で描かれているのは、主人公をはじめ登場人物たちの抱く純粋な、理屈を越えた「感動」であり、「心」なのだと思う。 心は論理で割り切れない。たとえ現代科学の常識が天使を否定しようとも、何かを美しいと思う心や、誰かを愛しいと思う心は、そこに確かに存在する。そういう素朴な心を失わない限り、どんな社会でも人間は人間らしく生きていけるのではないか。 そういったメッセージが込められた作品だと思うのである。


■ 参考作品
・『天使のいない12月』 Leaf (2003)


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