語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-10

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[2011-11-12]  語りえぬものの追究  

2010年代に入ってからのエロゲで、現時点で最大の傑作として捉えておきたい作品がある。ケロQの『素晴らしき日々~不連続存在~』である。単純にシナリオ展開やキャラクターの個性、そして絵や音楽等の演出といった点でも秀でており、それだけでも十分に一級品たりえる素質を持っているのだが、それをさらなる高みへと昇華させたものこそが、作品の根底に流れる一大思想である。作中でも何度も言及されるその思想の提示者こそ、20世紀の天才哲学者とも称される「ルートヴィヒ=ウィトゲンシュタイン」だ。

エロゲには哲学的テイストを内包した作品が少なからず見られるが、これほどまでに一人の哲学者の思想をかみくだき、消化し、そして物語という地平で新たに開花せしめたエロゲが存在するだろうか。いや、エロゲに限らず、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』を世に出してから今までのおよそ百年の間、彼の哲学を完全に体現した物語というのは無かったと言っていいのではないかと思う。無かったというよりはむしろ「ありえない」というべきだろうか。なぜならばウィトゲンシュタインの思想に匹敵するものとは、いわば「この世に存在する無数の物語の、その全て」だからだ。ゆえに、その部分集合である単体の作品では論理構造的にどうやっても表現しきることはできない。だが『素晴らしき日々』は、それをなそうとした物語なのだ。厳密にはこの作品にも結局それは不可能である。しかし、「この世の全ての物語への架け橋となる物語」を描くことである意味その目的を達成したと言える方法論は、まさしくウィトゲンシュタインがとった哲学的手法の再現であった。この見事なまでの作品理念に対する感動、そして物語が教えてくれるウィトゲンシュタイン思想の価値と意義について、順を追って考察していきたいと思う。

この作品を考察する際に、やはり絶対に外せないのが上にも述べたように『論理哲学論考』だろう。各章の冒頭は『論考』の引用から始まり、さらに登場人物のセリフにも、いたるところにウィトゲンシュタインの思想を意識した言葉が散りばめられている。したがって、『素晴らしき日々~不連続存在~』には様々なアプローチの方向性が考えられ、しかもそのどれを以てしてもそれぞれ興味深い結論が見えてくるだろうという予感が果てしなく広がる一方で、やはりこの『論考』に沿って考察していくのが正攻法でありそれが作品を理解する一番の近道だと自分は判断する。

もちろん、『論考』自体が容易く理解できるかというと、当然ながらそんなことはない。かのバートランド=ラッセルが『論考』発刊の際に寄せた序文にさえウィトゲンシュタインは「私の考えが汲み取れていない」と憤慨したという具合だ。しかし、ここではある程度割り切って論を進めることにする。ざっくりと述べるならば、『論考』は7章構成だが、実際には主に2つの異なる趣旨に分けられると。すなわち前半は「世界とは、そうである事全てのことである。」から始まり、最終的に真理関数による命題の記述へと至る流れ。そして後半とは「語りえぬことについては、沈黙しなければならない。」という極めて象徴的な一文によって語られる思想だ。大雑把な言い方をしてしまえば『論考』は、

 ①世界を論理的に規定する
 ②しかし、その世界には意味が内包されていないことを述べる

という構成をしている。そしてこのように考えた時、それはそのまま『素晴らしき日々』の作品の構成に反映されていると見ることができるのである。そう、『素晴らしき日々』には二つの大きなテーマが隠れている。明確な区分こそ無いものの、この作品を始めた時と終えた時で、なにか雰囲気の違いのようなものを感じ取った人は少なくないはずだ。それはこの作品に二つのテーマが存在し、それらが作中において絶妙と言っていいほどの滑らかな移行を見せているが故の感覚である。(その移行、あるいはその前後の結びつきの絶妙さも、この作品に秘められたきわめて魅力的な要素の一つである)

さて自分がここで提示する論は、この作中の「二つのテーマ」こそ、「『論考』の前半と後半」にそれぞれ呼応するのではないかということである。上で既に付した番号に即して、この二つのテーマを表現するならば

 ①’セカイの形成
 ②’セカイからの脱却、そして究極的な生の意味

という風になるだろうか。


§ セカイ系はいつ終わるのか / 「終ノ空」

まずここでは①’のテーマについて掘り下げていく。「世界」ではなく「セカイ」と書いたのは、いわゆる“セカイ系”を意識してのことである。

セカイ系とは、アニメや漫画に見られる作品類型の一つであり、おおまかには「主人公とその周囲の人間のみで完結した世界観を持つ物語」を指す。もちろんその理屈だと、どんな物語でもセカイ系になってしまうのであるが、セカイ系に分類される作品に多い特徴として「登場人物に迫る危機が、そのまま世界の危機あるいは崩壊につながる」と言うと多少イメージはつかみやすくなるだろうか。特にセカイ系色の強いものでは「主人公の少年(ぼく)あるいはヒロインの少女(きみ)の精神が世界のあり方そのものに直結する」ような状況もしばしば描かれる。

この『素晴らしき日々』も、前半の設定はまさにセカイ系そのものと言える。セカイを形成するキャラクターは、主に高島ざくろと間宮卓司の2人だ。

「空に輝く、無限なる三角よ。
 銀河を飲み込む大いなる無限よ。
 少女の言葉を……」


自らを「世界少女」と名乗り、空に向かって謎めいた言葉を放つ高島ざくろ。

「そう、すべてが終える空がやってくる。
 終わりでも始まりでもない……空……
 空の臨界地点。
 無限と有限の境界。
 すべての対が終わる場所……
 すべての対が終える場所…… 終ノ空!」


ある出来事を通して自らが「救世主」であると知り、2012年7月20日に世界は「空に還る」、すなわち終焉を迎えると語る間宮卓司。

これほど極端なセカイ系も珍しいが、ある意味で典型的でもある。ただし、これはあくまで設定における議論だ。それを踏まえた上で、ここではさらに物語の方向性というものを考えておきたい。実はこの点において『素晴らしき日々』は、他のセカイ系作品と一線を画しているのである。後半のテーマ(②’)につながる流れと極めて密接なファクターでもあるそれは、「強固なセカイ系を形成しつつも、人物の視点が常に外に向けられていること」とでも表現するべきだろうか。

そもそも究極のセカイ系とは「自己」である。純粋な主観。生まれたばかりの赤ん坊の精神がそれに近い。赤ん坊には「他者」という概念がなく、世界とはすなわち自分そのものである。それが年月を経て心身が成長するのに伴って、人間は「他者」を認識できるようになっていく。最初は両親や兄弟、それから友だち・・・と、周囲の人間がどんどん自らのセカイに入り込んでくることで、「世界は自分一人のものではない」ということを知り、たとえば他者の気持ちを思いやる等といった人間的な精神をも学んでいくのである。やがて大人になるにつれて、世界=社会全体へと広がり、「自分がこの世界において特別な存在ではない」「自分一人が居なくなっても、世界は変わらずそこに在り続ける」といった現実的な発想に至る。これは、言ってみれば「セカイ系の終焉」である。幼い子どもがよくヒーローごっこ等をして遊ぶのもある意味セカイ系の表れと見ることができ、そしてヒーローになりきって楽しんでいる彼らの姿は、いかにも子どもらしいと言える。しかしそれが大人だったら、そんな遊びに夢中になるのは恥ずかしいことだと感じてしまうだろう。社会という客観的な視点で自分を捉えるということを覚えたとき、セカイ系は終わりを迎えるのである。

それ故に、セカイ系の物語においてまず重要なことは「外に目を向けない」ということなのだ。主人公とその周囲のみで完結する世界観を維持しなければならない。(それは見方によっては、己の限られた視野に閉じこもる「精神的な幼さ」の象徴とも解釈できる。)セカイ系色が強ければ強いほど、それを保つために、作品はより内向的にならざるをえないはずだ。そうせずに外の世界を見てしまえば、それはまるで楽しい夢から現実へ醒めてしまったときのような、文字通りの「幻滅」となって終わってしまうに違いないからだ。

ところが、『素晴らしき日々』は驚くべきことに、視線を外の世界に向けている。

「由岐……俺はたまにこんな事を考えるんだ。」

「もし世界の限界を俺は見ることができるなら…
 世界の限界って……俺の限界と同義にならないか?」

「俺と世界に違いなんてない。
 だからこそ、疑問に思う。
 他人も含めた世界って何だ?
 世界が俺なら、他の連中はなんだ?
 それらも世界を持っているのか?
 だったらそれは別々の交わらない世界なのか?
 それともその世界は交わることができるのか?
 すべての世界……すべての魂は……たった一つの世界を見ることが出来るのか?」


このセリフは、ウィトゲンシュタイン『論考』の

 (5.6) 私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する。
 (5.63) 私とは、私の世界である。

このあたりの命題に深く関係していると思われる。あらかじめ断っておくと、これらの文章は「世界には私しかいない」という独我論を述べているのではなく、むしろ独我論を批判する立場から主張されたものである。

ただ、重要なのはそこではない。独我論を肯定するにせよ否定するにせよ、世界において「私」とは非常に特別な存在に違いない、ということ。そこに注目するべきなのである。それは「私という人生の主人公は他ならぬ私である」という当たり前のことだ。小説なら、一人称から離れたいわゆる「神の視点」で物語を書くことも読むこともできる。しかし現実のこの世界は、人は神の視点に立つことはできない。誰一人として、己の世界から主観を完全に排除することはできない。何をどうあがこうとも、「私」は「私」として物を考え、感じるしかないのだ。

「自分がこの世界において特別な存在ではない」
「自分一人が居なくなっても、世界は変わらずそこに在り続ける」

人は成長するにつれて、こういった現実的な視点を自然と獲得する。こう考えることが正しいと信じ、「冷静な大人の考え方だ」と誰もが言う。逆に「自分がセカイの中心なんだ」という考え方は幼い、子供じみた考えにすぎないと誰もが思う。

しかし、である。「自分が死んだときに世界そのものも消える」ということが絶対にありえないと言えるだろうか? その仮説は間違いだと論理的に証明できるだろうか? ……無論、答えはNOである。人は、どこまで行っても完全に客観的たりえない。どれだけ長い年月を生きても、「自分のセカイ」から抜け出せない。その意味では、セカイ系は「終わらない」のである。

仮にセカイ系を精神的な幼さの象徴と捉えるならば、我々は生きている限りその幼さを払拭できないということになろう。「人が死ぬまで持ち続ける幼さ」とでも言うべきかもしれない。セカイ系の根本には、人がその誕生の瞬間に否応なく取り付けられる鎖のようなものが存在し、我々はそれを断ち切ることも、そこから逃れることも出来ないのである。

『素晴らしき日々』は、そういう「セカイの絶対性」を、適確に見据えている。見据えるどころか、挑んでいるのだ。その絶対性に。その無限の広がりに。作中には、高島ざくろのこんなセリフがある。

「まるで、私たちはそれぞれに内なる世界を持ち、
 共通の外なる世界を持つように感じている。
 ならば、その共通の外の世界はどうやって至るのでしょうか?」


序盤のこのセリフにこそ、まさに『素晴らしき日々』という物語全体の方向性が明確に示されていると言えよう。物語は、世界が「空に還る」とされる2012年7月20日に向かって収束していく。やや高度な議論になるが、それは「世界」の終焉でもあると同時に
内なる「セカイ」の限界をも示唆するのではないだろうか。

「すべての世界……すべての魂は……たった一つの世界を見ることが出来るのか?」


間宮卓司は、世界の終焉を説く一方で、常にこの問いを持ち続ける。彼が熱く語り、目指してやまない「終ノ空」とは、空と同様に無限の広がりを持つ内的セカイの終点でもある。ここに、「セカイを超えようとすることによってセカイ系を構築する」というある種逆説的な形式が成り立っていることに気づかれたい。「セカイ系でありながらも、視線が外を向いている」とはそういうことであり、この一見矛盾したスタイルこそが『素晴らしき日々』の根幹を為している。そして、実はそこに矛盾は無い。

「セカイを超えようとすることによってセカイ系を構築する」というのは、例えば、6、6.9、6.99、6.999、…と無限に列挙していくことによって「7」という境界の値を想像させることと実によく似ている。しかし、その調子でいくら数字を書き連ねたところで7を超えることはない。人間がいかなる論理を用いても7には到達できない。その「7」に例えられる現象こそ「内なるセカイの終焉」でありあるいは完全なる客観の「外の世界」であり、そして間宮卓司にとっての「終ノ空」なのである。(ここで自分があえて「7」という数字を例に挙げたのは、ウィトゲンシュタイン『論考』の最終章(=7章)に照らし合わせた上での、ある意図を込めたのだということを述べておく)


§ 語りえぬこと / 「素晴らしき日々」

この作品がもし前半だけで終わったならば、タイトルは『終ノ空』とするべきだっただろう。しかしそこで終わらずに、物語の主題を『素晴らしき日々』へとつなげたことこそ本作品の最も評価するべき点である。逆説的なセカイ系を展開した前半から、後半の新たなテーマへのシフトはあまりに見事と言わざるをえない。

では、その「新たなテーマ」とは何だろうか。それは自分が冒頭に②’として述べたように「究極的な生の意味」に他ならない。

何のために生きているのかということについて真剣に考えたことはあるだろうか。今現在、具体的な目標を持っている人は、それを回答して満足してしまうかもしれない。しかし、さらに深く考えてみてほしい。その目標を達成することに、果たしてどれだけの意味があるだろうか。おそらくそれらは一時的な意味しか持ち得ないだろう。なぜなら、どんな人も何をしたって結局最後には死ぬからだ。いずれ来る死の前では、この世のあらゆる物事の価値は無効化されるのではないか。

いやいや、と首を振る人もいるだろう。人生の目的は「子どもをつくって自分の遺伝子を残すこと」だと。自分が死んでも自分の子孫が残るならばそれは意味があるのだ、と。しかし人類そのものだって、いつかは滅ぶかもしれない。作中でもこの問題は提起され、上記と同様の回答をする間宮卓司に、次のような言葉が返される。

「有意義な人生って、卓司くんの言い方だと
 ただ時間的に答えを後に引き伸ばす事に思えるよ。
 人間の生きる意味。
 生命が存在する理由。
 それらは単に、幸福を時間的に引き伸ばして、
 『これは有意義である』と宣言しているみたい」


作中にはこんなセリフもある。

「生まれたばかりの赤ん坊が首を絞められ、
 その人生をほんの10分程度で終わらされたとしよう。
 たかだか10分の命に意味はあるのか?
 ……だが、それと同じ事だ!
 その赤ん坊の10分に意味が無いのであれば、我々人類の歴史とて意味などない」


言葉の内容そのもののインパクトは強烈であるが、しかし我々は心のどこかで「なるほど」と納得してしまっているはずである。「これこれこういうわけで人が生きることには普遍的な意味があるんだよ」と明確に証明することなどできないのだと、私たちはうすうす気付いている。ここで『論考』におけるウィトゲンシュタインの言葉を見てみよう。

 (6.41) 世界の意義は、世界の外側になくてはならない。
     (中略)
     世界の中には、いかなる価値もない。
     仮にあるとしても、その価値には、いかなる価値もない。

彼もまた、哲学という名の論理の限界を述べているのである。哲学によって世界の意味は記述できないのだと言い切っている。それは「数学は処女のように純粋だ。ゆえに子供を生まない」と語ったアインシュタインの言葉をも彷彿とさせる。論理哲学は自己完結した世界であるが故に、意味を作り出すことができないのである。(その「自己完結した世界」という概念から、私たちを取り巻く「セカイ」をも連想させる流れがこの作品の妙味でもある。)

しかし、そうだとすれば私たちは潔く認めなくてはならないのだろうか。人生や世界には、何の価値もないのだろうか。生きることには絶対の意味があると証明する方法は、無いのだろうか。

おそらく誰もが一度は抱くであろうその問いを、作品に登場する水上由岐という少女もまた抱き続ける。彼女は、生まれ故郷の満点の星空を見上げながらこんなセリフを口にする。

「もちろん、ずっと、ずっと疑問に思ってた。
 神様なんて世界にいない。
 それどころか、この世界に生まれるのは呪いに似たものだって…
 だってさ、死んじゃうんだからさ。
 どんな幸せな時間も終わる。
 どんな楽しい時間も終わる。
 どんなに人を愛しても…どんなに世界を愛しても…
 それは終わる。
 死という名の終止符を打たれて…」


彼女はそして、自身がよく見るというこんな夢について語るのだ。

「生まれたての赤ん坊がいるんだよ…誰が生んだのか知らない。
 いや、もしかしたら、私が生んだのかもしれない。
 だから、私はうれしかったんだと思う
 (中略)
 それでさ…その赤ん坊は泣くんだね…おぎゃ、おぎゃ、ってさ
 うれしくて、私とかも笑うんだよ…周りのみんなも一緒に…
 それは祝福なんだよ。
 生命に対する…祝福。
 だってさ、単純にうれしいからさ…
 赤ちゃんがこの世界に出てきてくれて…ありがとうって…
 だから世界は生の祝福で満たされる。
 でもさ…でも私は気がついちゃうんだよね…
 あ、違うって…
 私は一人で恐怖するんだよ。
 すべての笑顔の中で私だけが恐怖するの。
 だってさ、気がついちゃうんだもん…
 その子はこの世界を呪っているんだってさ。
 生まれたことを呪っている事に。
 みんなの笑顔の中で、私だけ凍り付く…
 祝福に包まれた世界で…一人…
 その時、私は思うんだ。
 その赤ん坊の泣き声を止めなきゃいけないって。
 私は、生まれたての赤ん坊の首を絞めて、
 その人生をそこまでで終わらせなきゃいけないってさ。
 だって、生まれるって呪いだもん…
 少なくとも生まれたばかりの子供はそう考えてる…だから…
 その呪われた生を終わらせるために…
 でもさ、当たり前だけど…出来ないんだよね
 おぎゃ、おぎゃ、って泣いている赤ん坊の首を絞めるなんて出来ないよ…
 なんでだろう…
 赤ん坊は生を呪っているのに、
 でも私はその生を断ち切ることが出来ない。
 しなきゃいけないのに…出来ない…
 んでさ…私さ、うわん、うわん泣いちゃうんだよ
 そんな事現実では全然ないのにさ…
 そのうち…赤ん坊の泣き声がね…普通に
 普通になっているのに気が付くのね。
 普通に…おぎゃ、おぎゃって泣いてるんだよ。
 その声を聞きながらさ…私は良かった、と思うんだ…
 そして祈るんだよ…この命に幸いあれって」


彼女はどうして赤ん坊の首を絞められなかったのだろうか?
そして、それをどうして良かったと思えたのだろうか?

『素晴らしき日々』は、その根拠を明確には「語らない」。彼女はただ満天の星空を見て、答えを得たのである。

「何故、生まれた赤ん坊の泣き声を止めてはいけないか…
 何故、人は自分以外の死を悼むのか…
 そして、その悼みは…決して過ちではなく…
 正しき祈りなんだ、ってさ…」


空は、彼女に何を教えてくれたのだろうか。物語全体を通して様々な視点からのモチーフとなる、空の描写。それらは決して、単に雰囲気を演出するための装置としてのみはたらいているのではない。水上由岐のシーンに示されるとおり、明らかに作者は「空」という対象にストーリーの背景であるという以上の何らかの重要な意味を込めている。

実は、空が印象的に描かれるシーンはもう一つある。2章のラスト、「世界が空に還る日」である7月20日の到来を目の前にして間宮卓司と橘希実香が、屋上で仰向けになって空を見上げるシーン。セカイの果てを追い求め、全てを為し終えた2人。そこで見る最後の風景を前に、希実香はこうつぶやくのだ。

「でも、夕日って…どこの空でも綺麗なんですよねぇ…
 世界の果てで見る夕日も、
 いつかの帰り道に見た夕日も
 どっちも綺麗……綺麗なんだなぁ……」


思うに、空とは無限の象徴なのだ。その高さには果てがなく、夜空の向こうには無限の宇宙がある。古来より神が天に住まうとされてきたのも頷ける。昔の人は、自らの理解の範疇を超えた広がりを持つ空に、ある種の謎めいた魅力さえ感じながら、おそらくその美しさに幾度となく見入ったことだろう。

それに比べて、現代人は空を見なくなった。都会に生きる人々が目にするのは、そびえ立つビルの隙間に見える小さな空でしかない。地球が丸いことも、空がなぜ青いのかということも科学ですべて証明されて、私たちにとっては空は単なる一現象に過ぎなくなっている。そうして空というものを理解した気でいるのだ。不思議でも何でもないと思っている。あらゆる事柄を科学や論理で記述し、わかりやすい秩序や法則を求め、辻褄の合った自己完結の世界を構築しようとして、ある時ふと、世界そのものの意味を記述できないことに気づく…それが私たちだ。

結局、私たちの論理には限界がある。現に、空の向こうに広がる宇宙について、現代科学は全ての謎に対する解を用意できてはいない。いや、たとえいつの日か宇宙の全てが解明される瞬間が訪れようとも、その日も私たちはやはり空を見上げて、その規格外の広さと青さと、そして美しさに、きっと言葉を失うに違いないのだ。

そこには何の論理もない。それでも人には、何かを感じずにはいられない心がある。私たちのちっぽけな理屈なんて及びもしないような、どうしようもなく感動的なものが、この世界には溢れている。それらは往々にして「語りえない」ことばかりだ。しかし、それでいいのである。生きることの喜びも、そして悲しみも、単純な言葉で語れてしまったらそれは嘘だ。幸福とは何かもよくわからないまま、それでも人は幸福でありたいと望む。確かなものなんて何一つない世界で、それでも人は「素晴らしき日々」を紡いでいく。私たちはそうして世界の意味を見いだせる。だからこそ、ウィトゲンシュタインはこう述べたのだ。

 (7) 語りえぬことについては、沈黙しなければならない。

彼が生前に世に出した唯一の著書『論理哲学論考』。その最後の7章を、彼はこのたった一文のみで終えたのである。彼は、哲学が論じることができるのはここまで、と線を引いたのだ。ここから先は語りえない、と。世界の意味、存在の価値、生への祝福。

「何故、生まれた赤ん坊の泣き声を止めてはいけないか」
「何故、人は自分以外の死を悼むのか」

この世界に満ちた、たくさんの美しいこと。語りえぬ素晴らしき日々。そこに哲学や論理がしゃしゃり出てはいけない。それらは、哲学を超えたところにある何かなのだと、彼はそう言い切ることによって、自身の哲学を終結させたのである。

以上のように考えると、この作品『素晴らしき日々』は、やはりウィトゲンシュタインの思想のみならず、その著書における論理の展開方法までも相当に意識した上でシナリオを組み立てていることが見て取れる。

しかも、そこに現代のサブカルチャー作品(マンガ、アニメ、エロゲ等)に見られる一つの大きな流れであるところの「セカイ系」という要素を絡めて論じ、またそれと同時に「空」という一貫した象徴を物語の基軸にすえて、独創性・芸術性ともにきわめて高い作品として描ききったことは、まさしく驚嘆に値する。かつてウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』が、当時の既存の西洋哲学に対して破壊的とも言える衝撃を与えたのと同様、『素晴らしき日々』は、現代日本のサブカルチャーにおける「セカイ系」を形としては踏襲しながらも、それに対する深い考察と反省の果てに、最後には「セカイ系からの脱却」という革命的なテーマを提示するに至っていると見るべきである。

それは、前半の議論でも既に自分が述べた、「セカイを超えようとすることによってセカイ系を構築する」という逆説的な指向性に直につながることなのだが、ここで思い出してほしいのは、その逆説志向の根本には「人は自分のセカイからはどうやっても抜け出せない」という、いわば「セカイの絶対性」が前提としてあったということである。

人間の知性は、論理的なものを好む。周囲の現象を客観的にとらえ、その普遍性を証明したいという根元的な欲求こそが人類の知恵を生み、科学技術の発展をもうながしてきた。だがその一方で、人はいつまでたっても主観を完全に排除できない。「私」は、死ぬまで「私」で在り続けるしかなく、故に「私」の外の世界に至ることができない。この世のあらゆることを論理的に説明しようと頑張ってきたにもかかわらず、実は「私」以外の人間が本当に存在するかどうかすら証明できないということへの、焦りと不安。この作品におけるセカイ系は、現実を生きる誰しもが内包している、ある種の不安定さに端を発している。
主観と客観の境界に生きながら、その曖昧な状態から抜け出したいがために、自己本位なセカイ系を形成する一方で、セカイの果てを求めて奔走せずにはいられない。それは本作品における間宮卓司の姿そのものであるが、同時に、私たちの誰もが確実に抱えている「精神的な幼さ」の一面が、彼というキャラクターを通して描かれているとも見ることができるだろう。

しかしこれまでに何度も述べた通り、私たちも、そして間宮卓司もその「幼さ」からは決して脱却できない。外の世界を目指しながらも、結局どこまで行ってもそれは内なるセカイでしかないのだという、いわば「セカイの絶対性」を認識することが物語前半のテーマでもあった。だがウィトゲンシュタインが自身の構築した論理哲学の限界を示したようにこの作品もまた、その「セカイの絶対性」を最終的には自らの手で覆しているということに気付かねばならないだろう。

完結したセカイの中で際限なく繰り返される問いかけ。どこまでいっても答えの見えないそれらの問いから、しかし私たちを解き放ってくれるものがある。それをウィトゲンシュタインは「語りえぬこと」と表現した。そして『素晴らしき日々』は、それを「空」という象徴によって描きだした。

セカイの果ては語りえないが、しかし空という超然たる存在に触れる時、自己本位という名のセカイ系は確かに終わりを迎えるのである。

・・・間宮卓司が、最後に橘希実香を愛したこと。
・・・水上由岐が、赤ん坊の生を祝福できたこと。

人は死ぬまで「自分がセカイの中心である」という「幼さ」を払拭できないのに、一方で「自分も他者も同じ人間なんだ」と考えることができる。私たちは他者の気持ちに立って、他者を尊重することを自然に覚えるのだ。これは、明らかな矛盾である。しかしこの矛盾こそが、人が人である所以なのではないか。矛盾しているからこそ、それはどれだけ言葉を尽くしても語りえない奇跡なのではないか。人間らしい精神とは、常に自己と他者との間の葛藤の中で育まれる。それはいわばありふれた、しかし人間にとって最も根本的なテーマであり、この作品におけるセカイ系もまた、究極的にはその問題に還元されると言えよう。

誰もがあたりまえのように抱えている「精神的な幼さ」と、誰もがあたりまえのように育んでいく「人間らしさ」。そんな「あたりまえ」の影に隠れて、普段は誰も意識しない矛盾。けれど我々は見て見ぬふりをしながら、心のどこかで不安を感じている。それを徹底的に追究していくことに、この作品の本質がある。人はどうして他者を受け入れるのか。人は何のために生きているのか。この世界に意味はあるのか。幸福とは何なのか。
そういった終わりのない問いかけをとことんまで突き詰めて突き詰めて、しかしやはり答えの見えない絶望の中に沈んでいき、その閉塞感にとうとう息が詰まりそうになった時、ふと見上げると、そこには透き通るような青空が、果てしなく広がっている。
そんな胸のすくような爽快感、それこそがこの『素晴らしき日々』の本質なのである。

「考えてみれば不思議なものだ。
 我々はこの地上で有限なもの、
 小さなもの、変わりゆくもの…
 そういったものに囲まれて暮らして、
 それをありふれた日常として生きている。
 けど、その真上には、人が決して到達できない、
 人がその限界を知ることすら出来ない……無限が広がっているんだ。
 ありふれた日常の上に、あたりまえのように広がる無限……
 我々はそんな世界で、生きている」


地上と空。有限と無限。セカイと世界。論理と倫理。「語られうるもの」と「語られえぬもの」。その幾重にもかさなるコントラストが、この作品の奥深さを際だたせている。

小さな無限の上に広がる大きな無限である、空。それは6、6.9、6.99、6.999、…のすぐ上に存在する「7」という命題の象徴でもある。論理を尽くしたその向こう側にある、語りえぬもの。私たちの日常は、そんな語りえぬものによって彩られている。

ウィトゲンシュタインは自身の『論考』についてこう述べたという。「私の仕事は二つの部分からなり、すなわちそこに書かれていることと、書かれなかったすべてとである。そして重要なのは、実はこの後者の方なのだ」と。ならば、もし彼がこの『素晴らしき日々』というエロゲ作品を知ったら何と言うだろうか。やはりラッセルに対してと同様、「自分の考えが汲み取れていない」と憤慨するだろうか。(もしくは「エロゲなんかに自分の言葉を引用するな」と怒るだろうか。)・・・だが、少なくともこれだけは言える。『素晴らしき日々』は、哲学で語れなかったことを物語という形で示したのだ。

今ここに一つの作品として表現されているものこそ、彼が何よりも語りたかった、しかし哲学の言葉によって語りえなかった「素晴らしき日々」なのではないだろうか。




■ 参考作品・文献
・『素晴らしき日々~不連続存在~』 ケロQ (2010)
・Ludwig Wittgenstein著、山元一郎訳 「論理哲学論」 中公クラシックス (2001)
・永井均 「ウィトゲンシュタイン入門」 ちくま新書 (1995)


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