語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

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[2011-12-22]  大正浪漫のすすめ  

いわゆる大正浪漫の雰囲気をまとったエロゲというのは、それほど数は多くない。そもそも過去の日本を舞台にした作品(小説で言うならば時代小説にあたるもの)自体が、ジャンルとしてはほぼ未開拓状態に等しいと言える。それを踏まえると、日本の長い歴史の中で15年しかなかった大正時代に焦点が当てられる機会が少なくなるのもむしろ当然のことであるのかもしれない。

時代が過去ということになると、どうしても古い=堅苦しいの印象が増してしまうので、エロゲのもつポップさと矛盾してしまうというのも問題の一つとして考えられる。ただ、自国の時代モノなら堅苦しく感じるのに、西洋の中世を舞台にしたものは何故かポップな雰囲気とも親和性が高く、実際そういったエロゲが数多く存在して人気を得ているという事実は、わりと興味深い考察テーマたりえるかもしれない。

それはエロゲに限らず、ファンタジーと言えば誰もが西洋の魔女や騎士を思い浮かべて、日本を題材にした作品のイメージに今ひとつ結びつかないということと根を同じくする現象であろうと思う。つまり西洋中世チックな作品は極端な話、時代考証にとらわれずに想像だけで描いたとしてもファンタジー枠として受容可能であるが、日本の時代モノはなかなかそういう風には受け取られず、やれ考証がなってない、やれ言葉遣いが合わないだのといった批判の矢面に立たされる。

これは言ってみれば「自分に関係性の強い出来事を茶化されたくない」という心理なのかもしれない。あるいは自分に近い物事だからこそ、矛盾点に敏感になっていると言ってもいい。外国が舞台の物語を現地語の会話で再現されたらたまったものではないので、登場人物たちが現代日本語を話しても我々としては妥協するのが当然であり、だからこそ違和感をもたない。しかし江戸時代を舞台とする作品のキャラクターが現代日本語をしゃべっていると、我々は「なんだかなぁ」と感じてしまうのである。遠く離れていればきっぱりと開き直れるが、下手に近くにあるものだともうちょっと何とかなりそうな気がして、細部にこだわろうとして逆に敷居を高くしてしまう。ある意味では典型的な人間心理の招いた結果であるという仮説を僕は推したい。

ただし、逆に西洋の人々にとってはファンタジー=東洋風なのかというとそんなことはないように見受けられるので、人類普遍的な心理解釈だけでは説明できない何か、つまり東洋あるいは日本特有の要素が絡んでいる可能性はある。(単純に西洋コンプレックスであるという線も捨てきれないが。)まあそういったことへの考察は今回はここまでに留めておくとして、僕が言いたいのは「過去の日本を舞台とするエロゲが少ないのはもったいない」ということだ。細かい時代考証にとらわれずに面白い西洋中世モノがたくさん作れるなら、同じように和風でも多種多様な作品が自由に作られてもいいのではないかと思うのだ。

さてそんな中で、エロゲの題材として比較的取り上げられやすいのは戦国時代だ。アリスソフトの『戦国ランス』は言うまでもなく傑作であるし、他にもエロ重視のゲームを含めればそれなりの数のタイトルが挙げられる。次の江戸時代となるとかなり数が減るが、僕がプレイしたものの中ではみるくそふとの『緋の月』が、時代ならではの雰囲気をうまく表現できた作品として印象に残っている。明治時代もまた珍しいが、エルフの『らいむいろ戦奇譚』は外せないタイトルだろう。やや時代が飛んで、昭和中期を舞台にしたエロゲとしては『赤線街路~昭和33年の初雪~』があり、これは当時の文化の解説オプションも充実しており、シナリオも主人公の心情の繊細な変化とうまく絡めて描いてみせた良作であった。

では大正時代はというと、一般ゲームではあるがセガの『サクラ大戦』という巨大コンテンツが存在する。(正しくは“太正”であるが。)一方で純粋なエロゲとしては、すたじおみりすの『月陽炎』が挙げられ、あの柔らかい色彩が独特の懐古的世界観を形成し、伝奇物ストーリーとしても名作の地位を築いている。

だが、僕が大正期を背景とするエロゲとして何よりも強調したい作品が、ぱじゃまそふとが2007年に発売した『ピアノの森の満開の下』である。登場人物は主人公を含めて三人(+一匹)と少なく、話も短めで他のエロゲよりは廉価で売られているが、これは実に注目すべき作品だと僕は思っている。

不治の病をかかえた妹の療養のため、主人公と妹は街から遠く離れた、桜の森の奥にあるサナトリウムを訪れる。そこには一匹の黒猫とともに静かに過ごす不思議な女性、木花がいた。木花の渾身の看護にもかかわらず、儚く消えゆく妹の命。その最期の時に、妹はもう一度、兄と一緒にピアノを奏でたいと言う。舞散る桜、そして生まれては瞬間で消えていくピアノの音色。そんな幻想的な景色の中で、三人は生というのものに向き合っていく。

この作品についてあえて分析してみるならば、大正時代という設定にしつつも、都会から離れた森の奥のサナトリウムを舞台とすることで、「何が起こってもおかしくない」という非現実的な空気をプレイヤーに無理なく受け入れさせることに成功している。つまり、上で述べたような時代モノの堅苦しさや過度の拘泥を見事に無効化できているのだ。

そういった作品としての自由さを獲得したがゆえに、妹の服装は袴にブーツとまさしく大正時代ならではの和の香りを漂わせ、対して木花は西洋のメイド服を身に纏っているという一見ちぐはぐな光景にさえも、何とも言えない一体感を生み出している。それはやがて桜という日本の象徴と、ピアノという西洋の楽器の音色が重なり合う物語空間全体へと広がっていく。そもそもが和洋折衷の時代であった大正期の雰囲気を受け継ぎつつも、そこからさらに幽玄の世界へと我々を誘うこの作品のあり方は、ある意味で和風ファンタジーの新たな形を提示していると言えるかもしれない。

物語の焦点は、主人公の妹が残りわずかな命をどう生きるかという部分に当てられるのは言うまでもないが、その視点をもって散りゆく桜の花と消えゆくピアノの音とに共通する儚さを見出すというところにこそ、この作品の切実な美しさがある。しかし現代が舞台であったとすればこの美しさも半減しただろう。大正時代という絶妙な距離感の中でのファンタジーだからこそ、桜とピアノのコントラストがより深みを増し、生というものへの態度をより際立たせてくれる。あの背景の中で語られる言葉だからこそ、木花の次の言葉が説得力を持ったものとしてプレイヤーの心に響くのである。

「『生きる』ことは、歩くことですよ。
 今いる場所と明日いる場所がまるで同じなら、
 『生きて』る意味はないじゃないですか。」


タイトルは坂口安吾の『桜の森の満開の下』を意識したものと思われるが、その幻想的で不可思議な世界観を踏襲しつつ、そこに死という重苦しいテーマ、しかしまたそれを中和するかのように透き通るようなピアノの音を物語の象徴として絡ませることにより、儚いながらも決して悲観的ではない、生への真摯な視点を描いた。まさしく傑作と呼ぶに相応しいものであろう。


■ 参考作品
・『ピアノの森の満開の下』ぱじゃまそふと (2007)


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