語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-08

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[2000-01-01]  ブログ案内  

ブログ案内です。


① ご挨拶

はじめまして。柾葉進(まさば すすむ)と申します。

当ブログでは哲学、歴史、文学、評論といったジャンルの文章を書いております。……と言うと、何やら非常に堅苦しいブログのように聞こえてしまいますが、実際はアニメやエロゲなどの、いわゆる二次元作品を切り口にして論じたものが多数あります。しかし単純に作品批評をするだけではなく、そこから様々な分野へと話題を広げて「これはちょっと考えさせられるな」と思ってもらえるような内容を目指しています。

したがって、アニメやエロゲをよく知らない人でも気軽に目を通して楽しんでいただけるような読み物、という風にしているつもりです。(なってなかったらすみません……。)そして同時に、二次元界隈に詳しい人にとっても満足いただけるような高密度の分析、あるいは新しい視点からの作品解釈を随所に散りばめておりますので、何かしら得られるものがあるのではないかと期待します。

純粋に哲学、歴史、文学について扱ったものもありますが、多くはジャンル横断的です。したがって記事ごとに一応のカテゴリ分類はしていますが、その枠に収まらない内容になってしまうこともしばしば起こりえます。過去記事を読む際に内容によってある程度選びたいという方は、「カテゴリ」欄の下の「年別アーカイブ」欄の頁を選んでいただければ、年ごとではありますが各記事についてカテゴリより多少詳しい内容要約を付した一覧が表示されますので、必要に応じてご活用いただければと思います。

皆様にとって快適に利用できるブログにしていきたいと思っていますので、もし「ここが見にくい」「ここをこうしてほしい」等の意見があれば、お気軽にメールしていただければ結構です。自分の好みも多少はあるので全ての声にお応えできるかわかりませんが、できる範囲内で善処したいと考えております。また記事の内容そのものに関するご意見、ご批判も大歓迎ですので、もし何か思うところがあれば遠慮なくコメント欄に書き込んでいただければと思います。いろいろと至らない所もあるかと思いますが、当ブログが皆様の日々の思索をより豊かなものにする一助となってくれれば幸いです。



② ブログ名の由来

当ブログの名前「語りえぬものはかく語りき」に関してですが、これは既にご推察された方もいらっしゃるかと思いますが、20世紀初頭の哲学者ウィトゲンシュタインの言葉「Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.」(語りえぬものについては沈黙しなければならない)と、19世紀末の哲学者ニーチェの著作タイトル「Also sprach Zarathustra」(ツァラトゥストラはかく語りき)とを組み合わせたものです。どちらも「語る」なので結びつけたら面白いかな、という安易な発想で思いついたわけですが、よくよく考えてみると案外、本質的な意味を帯びた言葉として解釈できるのではないかと思っています。

まず「語りえぬもの“が”かく語りき」と、語りえぬもの=主語というふうに捉えてみます。ウィトゲンシュタインが言うところの“語りえぬもの”とは一体何であるのか、というのは難しい問題なのですが、ざっくり論じるならば“非論理的なもの”と置き換えればいいと僕は考えています。そして非論理的なものの中には、神、宗教、道徳、あるいは人間の感情などが含まれます。ウィトゲンシュタインは「そういう非論理的なものを哲学で論じようとしてはいけない」と言ったのです。そして「人間が哲学の言葉では語れないそういったものこそが、本当は人間にとって一番大事なのだ」という示唆を提示しました。

しかし、そうすると我々は語りえぬものを一体どのようにして認識すればよいのか。ここからは僕の解釈ですが、次のように考えれば良いのではないでしょうか。すなわち「人間がそれらを語ることができない代わりに、それら自体が人間に語りかけてくる」と。それは神の啓示とかそんな大それた話ではなく、たとえば野に咲く花の美しさのようなものです。我々はその花を「美しいと感じよう」と考えているわけではなく、ただ美しいから美しいと感じるのです。何故美しいのかを論理的に証明するような対象ではなく、むしろ花の美が人の心に語りかけてくる瞬間を素直に味わうべきなのです。そしてその際の我々の心理を綴った言葉こそ、「語りえぬものがかく語りき」ではないかと思います。これはウィトゲンシュタイン哲学における“語りえぬもの”に対して我々がどのような態度を取るべきか、という問いの一つの有効な答えになっているのではないでしょうか。

では次に「語りえぬもの“を”かく語りき」と、語りえぬもの=目的語であるという解釈で論じてみます。これは一見やや不自然に感じるかもしれませんが、「は」を「を」と同じように使うことは日本語では可能な表現です。「あの問題はこう処理した」「この機械はあの店で購入した」は正しい日本語だと思いますが、これらの文における「は」は「を」の役割を果たしています。なので今回も同様に捉えてみてください。するとこの文は「語りえないものを哲学的にこう語った」、つまり非論理的なもの(=神、宗教、道徳、感情)に、論理のメスを入れて見せたぞ、という意味になるわけです。これは結論から言うと、ニーチェの姿勢に非常に近いものになります。

非論理的なものを論理でとことんまで解明しようとすると何が起きるか。それは非論理的なものがもはや非論理的なものでなくなってしまうということであり、消滅を意味します。つまり「神は死んだ」という状態です。ニーチェはその先にこそ人間の辿るべき道筋があると主張しました。神やら宗教やら、曖昧なものにふりまわされていたら人生の本質を見失ってしまう。そうではなく自分というものをしっかり持って、自分の意志で道を選択し、「誰に指を差されようともこれが俺にとっての正しい人生だ」と胸を張れる瞬間にこそ、決して揺らぐことのない生の実感がある。これがニーチェの哲学です。要するに「自分の足場は自分自身で固めようじゃないか」ということであり、そのためには曖昧な部分を残してはまずいわけです。非論理的なものを深く考えずに放置するのは思考停止に他ならず、そういった未知の領域にもひるむことなく挑戦し、自身の哲学を切り拓いていくことにこそ人間としての尊さがある。不確定な“語りえぬもの”を自らの理屈によって再定義して、堂々と「語りえぬものをかく語りき」と言えたとき、人間ははじめて確固とした人生を手に入れることができる。ニーチェはそう言いたかったのではないでしょうか。

さてこのようにして見ると、「語りえぬものはかく語りき」という言葉は、「は」=「が」と捉えればウィトゲンシュタイン思想を体現するものとなり、「は」=「を」と捉えればニーチェ思想を表現するものとなる、つまり日本語特有の曖昧さによって、僕が好きな二つの哲学思想の両方を内包した文になっているのです。僕は日本語という言語そのものにも非常にこだわりを持っており、それは文字媒体である小説やエロゲを特に好むことの理由の一つでもあります。“ウィトゲンシュタイン”、“ニーチェ”、そして“日本語の面白さ”、この三つの要素が全て揃った「語りえぬものはかく語りき」というこの言葉こそ、ブログのタイトルとして最もふさわしいと判断しました。



③ 哲学思想

僕自身の思想を一言で表すならば、「唯物論を基調としながらも観念論を志向するが、究極的には不確定性を謳歌する」というものです。【この思想の詳細については、主要記事の中の《物質と精神、どっちが大事?》をご参照下さい。】

大雑把に言うと前半部(=唯物論を基調としながらも観念論を志向する)がニーチェ的な思想で、後半部(=究極的には不確定性を謳歌する)がウィトゲンシュタイン的な思想だと捉えています。つまりニーチェとウィトゲンシュタインの両方の影響を受けているのですが、そのどちらとも完全には一致せず、両者を混ぜ合わせたような哲学思想になっている感じです。「全然違うものを混ぜたな」と思われるかもしれませんが、カレーとライスを組み合わせてカレーライスになるようなもので、意外とこの二つの思想は相性がいいのではないかと考えています。(ちなみにニーチェがカレーで、ウィトゲンシュタインがライスのイメージです。)

ニーチェやらウィトゲンシュタインやらの名前を出すとどんな特殊な思想の持ち主なのかと疑われそうですが、現代人としてはきわめて平均的な考え方をしているつもりです。なぜならニーチェもウィトゲンシュタインもそこまで奇想天外な哲学を打ち出したわけではなく、むしろ誰もが日常生活で多かれ少なかれ思っているようなことを言葉にしただけ(まあそれが偉大なのですが)だからです。カレーライスの例を引っ張りますが、たとえばお店でカレーライスを頼んだときにお皿全体にカレーのみ(つまりライスなし)のものが出てきたら「えっ」と思いますよね。また逆にお皿全体にライスのみ(つまりカレーなし)のものが出てきても「えっ」と思うでしょう。前者がニーチェ哲学、後者がウィトゲンシュタイン哲学であり、実際に彼らの思想は哲学界の中でも特に「えっ、そこまでしちゃう?」と言いたくなる類のものです。ただ、カレーのみもライスのみも、決して食べられないものではないですよね。普通の人がいつも日常的に口にしているものです。

一般人が普段当たり前のように食べているカレーライスを、「カレーだけにしてみよう」「ライスだけにしてみよう」と思いついて実践してみせたのが彼らなのです。料理なら苦労なくできますが、哲学でこれをやるのは本当に難しい作業であり、そして価値のある仕事です。つまりは彼らはカレーの研究、ライスの研究をそれぞれやってのけたわけです。そしてそれぞれの成果を参考にして、僕自身が自分なりに工夫しながら作り上げたのが“柾葉進”流のカレーライスです。これは皆さんが普段食べているカレーライスとそこまでかけ離れた味ではないはずです。(なにしろ同じカレーライスですから。)けれども、ニーチェとウィトゲンシュタインの思想に学んで、カレーとライスそれぞれにこだわりを持って作ったものなので、皆さんのカレーライスとは一味違ったものになっているんじゃないかと期待するわけです。

もちろん皆さんには皆さんなりのカレーライスの作り方があると思います。たとえばカントの研究したカレーとヘーゲルの研究したライスを組み合わせている方ももしかしたらいるかもしれませんし、あるいは「カレーもライスもニーチェ流!」とニーチェ一筋の方もいれば、ウィトゲンシュタイン一筋の方もいるでしょう。もしくは特に過去の哲学者は参考にせず、自分で何となく作っているという方もいるかと思います。(むしろ多くの人がそうではないかと思います。)十人いれば十通りのカレーライスがあり、そして“柾葉進”流のカレーライスもその中の一つです。このブログに掲載している哲学思想は、19世紀を代表する哲学者ニーチェと、20世紀の天才哲学者ウィトゲンシュタイン、この二人の成果を足し合わせ、そこに自分なりの工夫も加えて、現代社会に生きる人々の口に合うような新しいカレーライスに仕上がっているのではないかと思っています。是非ご賞味いただければ幸いですし、そして皆様ご自身が作るカレーライスの何かしらの参考になればいいなと思っています。

ですが、それゆえに僕の哲学思想は、見た目は普通のカレーライスです。この章の冒頭で「唯物論を基調としながらも観念論を志向するが、究極的には不確定性を謳歌する」と書きましたが、これは要するに「科学的世界観を前提とするが、その中で人間の精神や魂といったものも大切にし、その矛盾をあえて楽しむ」ということです。【この姿勢の具体例については、主要記事の中の《70年越しの任務達成》をご参照下さい。】すなわち、「基本的に神仏や霊魂は信じないものの、お墓参りや神社参拝には行ってお祈りをする。これは矛盾しているけどまあいいよね」という考え方です。同じような考えを持っている日本人の方もけっこう多いのではないかと思います。

また宗教そのものについても、おそらく他の日本人と同様にあまり意識したことはありません。家の宗教はごく一般的な仏教ですが日常でそれを感じる場面は皆無ですし、しいていえばご先祖様信仰、お天道様信仰、八百万の神々信仰といった神道的な概念を他の人よりは強く意識することがあるかなという程度です。特に日本特有のご先祖様信仰、お天道様信仰については客観的にも色々と考察できる対象だと捉えています。また八百万の神々信仰についても日本文化の本質を捉える上で重要だと考えているので、日本色の濃い話題になったときには時折顔を出すかと思います。【日本文化については、主要記事の中の《現代和風を考える》をご参照下さい。】

僕の思想の中で、一つの特徴的なキーワードになっているのが「武士道」という言葉かと思います。武士道とは、日本において700年近く続いた武士の世の中で自然と磨かれていった道徳観のことです。大正時代に国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造の著書『武士道』が有名だと思いますが、彼はある外国人学者から「西洋の子どもたちはキリスト教の教会で道徳を学ぶのに、日本の子どもたちはどうやって道徳を学んでいるのか」と質問されたことをきっかけに日本人の道徳について深い洞察を行い、そしてたどりついたのが武士道という答えだったと言います。それは明確な教典や教会を持ったものではなく、日本という社会の随所で、あるいは各々の家庭における躾けの中で、少しずつ形成されていく道徳観念であると指摘したのです。僕はこの新渡戸稲造による分析を正鵠を射たものだと考えており、そして武士の世が終わって150年近くが過ぎようとしている現代においてもなお、日本人の道徳を議論する際に非常に重要な観点であるばかりではなく、日本のみならず、現代の世界全体に蔓延する過剰な個人主義や合理主義、そして虚無主義を超克するための大きなヒントにもなり得るのではないかと感じています。【日本の道徳については、主要記事の中の《『永遠の0』と『魔法少女まどか☆マギカ』の類似点に関する考察》をご参照下さい。】

現代日本人は誰も武士道など持っていないだろうという声が上がるかもしれませんが、「自分より他人を先に」「人様に迷惑を掛けてはいけない」という言葉は誰しも聞き覚えがあると思いますし、また実際いざ何かが起こるとそういった行動を取る傾向が強いと感じます。誰も意識していないだけで、知らず知らずのうちに心の中で培われた美学のようなものを現代日本人はたしかに持っていて、それを我々は「常識」や「人として当たり前のこと」などと呼んでいるわけです。しかし、それをあえて「武士道」と呼ぶことで、日本精神の歴史の深みとともに改めて意識してみるのも一興ではないかというのが僕の考えです。

武士道とはただ他人に気を遣うだけの習慣ではなく、もっと本質的なものに根ざしています。新渡戸稲造はそれを「義」と呼び、武士道における最重要のものとして位置づけました。義とは「自分一人の損得ではなく、世の中全体にとって何が一番良いのかを考えて実践する心」です。そしてこれは「和を以て貴しと為せ」に象徴されるような、日本人の根底にある“和の精神”とも密接に結びつくものだと思います。僕は、新渡戸稲造が武士道においてこの「義」を中核にすえた点については限りなく正しい分析だと思っていますが、一方で、彼が著した『武士道』の内容は非常に一面的であるという批判がなされることがありますし、僕自身もまたこの書物の内容全てを肯定しているわけではありません。しかし、そのこと自体が逆説的に武士道の本質を体現していると考えます。つまり武士道は決まった形を持たず、時代によって、場所によって、あるいは各人によって変化しうるということです。それは「武士たるものは必ずこうしなければならない」という押しつけの規則ではなく、「良い武士とは何かということを自分で考えなさい」という普遍性をもったアドバイスなのです。

したがって僕自身もまた武士道に対して僕なりの解釈を持っています。それは「生の哲学である」というものです。武士道というと、江戸時代の書物『葉隠』の中の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」を思い浮かべる人も多いのではないかと推察します。たしかに武士道には滅私奉公の精神、すなわち自分を犠牲にして社会のために尽くすという姿勢が強く含まれています。しかし、だからといって武士道は死を推奨する哲学ではありません。何の意味もなく命を捨てようとすることを武士は“犬死に”として低く見ていたのです。かつての武士たちが何よりも追究したものは「死」などではなく「生の意味」だったと、僕は考えます。それはただ単に自らの欲望を抑え込んだり気持ちを殺したりするような後ろ向きの哲学ではなく、限りある生を輝かせるために自らの全身全霊を懸けてみせるという気概であり、そしてかつての武士が戦場において、何が何でも勝ち抜いて生き残ってみせたような生への強い意志もまた武士道の根幹をなすものではないか、そしてそれは武士のいなくなった現代においてもまた我々の道を照らしてくれる思想ではないか、そのように僕は思っています。【現代における武士道については、主要記事の中の《日本に一度だけ存在した共和国》をご参照下さい。】

そして武士道が「生の哲学」であると解釈したとき、まさにその点においてニーチェやウィトゲンシュタインの思想とも関わりが生まれてくるのです。なぜなら彼らもまた、現代という時代にあって生というものをいかに肯定的に捉えるかを悩み抜いた哲学者たちだからです。先ほど僕はカレーライスを作るにあたって「僕なりの工夫を加えた」と書きましたが、その工夫の中心と言えるものこそ、「ニーチェやウィトゲンシュタイン思想の諸要素を自身の武士道の中で捉えなおす」という試みです。したがって僕の思想にも必然的に「生への肯定」という視点が含まれます。より具体的には、人間のもつ感情や精神、あるいは人間らしさといったものに対して常にプラス側の姿勢をとっています。哲学思想に限らず、小説、アニメ、エロゲなどの各種作品に対する批評も、そういった視点からのものになっているかと思います。

ちなみに前章(②ブログ名の由来)では文章の構図上、ニーチェとウィトゲンシュタインをかなり対比的に説明しましたが、実際にはこれはかなり大雑把な捉え方で、二つの思想はそこまで正反対のものではないと考えています。ウィトゲンシュタインは前期と後期で思想の毛色が違っていますし(僕がこのブログで扱うのは主に前期です)、また彼も“語りえるもの”についてはとことんまで語る人です。【ウィトゲンシュタイン思想の解釈については主要記事の中の《語りえぬものの追究》をご参照下さい。】一方、ニーチェに関しても、彼は神と宗教は全否定しますが道徳については全体道徳を破壊して個人道徳を打ち立てようとした人であり、また人間の感情についても積極的に捉えなおす試みを行いますがそれは否定を目的とするものではなく、むしろ最大限に尊重する立場だったのではないかと個人的には解釈しています。【ニーチェ思想の解釈については主要記事の中の《美少女ゲーム作品にみるニーチェの思想》をご参照下さい。】



④ エロゲ観

エロゲと聞いて「は?」と思われた方も多いのではないかと推察しますので、ご説明致します。結論から言うと、僕はエロゲを「小説、漫画、アニメ、ドラマ、ゲームなどに肩を並べ、確固たる物語形式として一定の芸術性・文学性・芸術性を有するものとして考察および評論に値する存在」であると認識しています。

まずエロゲとは元々はエロゲームの略であり、その名の通り「Hなことをするゲーム」、つまりアダルトゲームの別称でした。いわゆる野球拳ゲームや脱衣麻雀ゲームなどを思い浮かべていただければイメージしやすいのではないかと思います。しかし、1980年代にPCの普及とともにエロゲが誕生して以降、その内容が徐々に複雑化していき、やがて一定のストーリー性を兼ね備えたものが出現してきます。そしていつしか、そのストーリー性が本来の目的であったエロ要素以上に重要視されるという逆転現象が一部の作品で生じます。このブレイクスルーをもとにして、2000年代前半にシナリオの多様性が爆発的に増加します。(僕はこれを地球上の生命進化史になぞらえて「エロゲのカンブリア大爆発」と呼んでいます。)そしてその流れを受け継ぎ、“エロがある作品”から“エロもある作品”へ、そして一部に関しては“エロがない作品”まで出現し、感動、戦闘、恋愛、情緒、哲学など様々な物語を内包した作品群を形成しているのが、現在のエロゲ文化なのです。

エロゲームからエロ要素が薄くなれば、それはただの「ゲーム」ではないかと誰もが思うところです。しかし、そうはならずにあくまで「エロゲ」という別個のものとして道を切り拓いていったのが、エロゲ史のもっとも興味深い点ではないかと僕は感じています。エロゲがエロ目的のゲームでしかなかった頃は、あくまでゲームの一つの派生に過ぎませんでした。ですが、やがてその進化が文章という形式にたどり着いたとき、大きな化学変化を起こしました。文章・絵・音楽、この3つの要素を全て兼ね備えた、今までにない物語形式が可能になったのではないか……? 本流だったゲームよりも、傍流だったエロゲームのほうがこの可能性に着目したのです。

もちろん一般ゲーム業界にもその観点はありました。1992年の『弟切草』、1994年の『かまいたちの夜』などのサウンドノベルがその象徴でしょう。しかし本家のゲームのほうは、コンピュータあるいはゲームハードの性能の上昇に伴って、それをフルに生かした作品制作を模索する方向に進んでいきました。すなわちゲームならではの操作性の追求、およびグラフィックの質の向上といった点に重きが置かれるようになり、逆に言うと低スペック機器でも表現可能な「文章」という要素は、どうしても相対的に価値が薄まっていくことになるのです。しかし、それを拾い上げたのがエロゲ業界でした。エロゲブランドLeafの高橋龍也氏が『弟切草』に影響を受けて1996年に『雫』『痕』を世に出し、高い評価を得たのは冒頭でも述べたとおりです。そしてこれに続く1997年の『ToHeart』の大ヒットによって、Leafはエロゲ界の中心的存在へと躍り出ました。このときから「文章」という要素は、ゲームよりもエロゲとともに歩んでいくことが決まったのです。

そうして文章の内容が次第に複雑化していくことで多様な物語を生み、やがて重心がエロからシナリオに移ることで、エロゲは小説、漫画、アニメ、ゲームの後に名前を連ねるような、独自の物語形式として文化の流れが確立されていきます。先ほど述べた「エロゲのカンブリア大爆発」も、まさしくその過程で生じたものです。官能小説は小説の一部ですし、エロ漫画とエロアニメも、それぞれ漫画とアニメの枠内に含まれるものでしょう。しかしエロゲは、エロからの脱却を見せた時点でゲームと肩を並べる存在となり、またゲームの一部であると捉えるにはあまりに個性的すぎる進化を遂げた作品群なのです。その個性を決定づけたものが文章であるのは言うまでもありません。

エロゲは「絵」という要素を持ちながらも、ストーリーの細部を体現するのは「文章」であるという特性を持つ、つまり人間の最も根本的な伝達手段である“言葉”を最大限に活用できるわけです。またそこにさらに加わるものが「音楽」であり、この音楽もまた人の心を直接的に感動させる力を持つ芸術なのです。小説や漫画には文章や絵という要素がありますが、そこには音楽がありません。アニメやゲームは絵と音楽が備わっており、さらに音声等による言語要素ももちろんありますが、それはあくまで補助的なものにとどまり、文章によって綴られる物語とは一線を画してしまいます。すなわち「文章」「絵」「音楽」の全てをあますところなく生かした作品形式というのは、人類史上、この現代日本のエロゲ文化の中で初めて実現したと言うことができるのです。

かつてリヒャルト・ワーグナーは、西洋文化の一つであるオペラが演劇と音楽が融合した作品形式であることを称えて、これを「総合芸術」(Gesamtkunstwerk)と呼びました。この言葉は今ではもう少し広い意味合いを持ち、ミュージカルや歌舞伎、さらに映画やアニメなどを含めることもあるようです。僕は、現代日本におけるエロゲもまた総合芸術の一つたる素質を多分に有しているのではないかと思います。しかも文章、絵、音楽の組み合わせは他の総合芸術の中にも類例がなく、形だけで言えばすでに十分に画期的な存在ではあるはずなのです。

ところが、その出自が「エロゲーム」であるが故に、多くの人から誤解されがちであることは、このエロゲという作品群の悲劇であると言えます。アニメや漫画に対してさえ「子どもが読むもの」「幼稚な物語」というイメージが依然として残っていたり、それどころか「犯罪に結びつく」などといったマスメディアによる印象操作も昔から行われています。いわんやエロゲをや、です。新しい物語形式に対しては、いつの時代でも世間の理解は得られないものです。たとえば現代では普通に読まれている小説も、古い時代においては「女、子どもが読むもの」として非難されていたと言いますが、そんな中でもその物語形式の魅力を見抜いた先人たちは、その作品を書き続けたのです。今では誰が、文学小説を読んでいる人を「幼稚だ」と馬鹿にするでしょうか。

ここで考えてみると面白いのは、小説という言葉の語源です。これはもともとは国の君主たる人間が国家や政治に対する志を書いた「大説」に対して、民間の言い伝えや説話などを小人の説という意味で「小説」と呼んだものであり、社会的価値の乏しいもの、取るに足らないものという蔑視の意味も込められていたそうです。しかしその小説もいつしか市民権を経ていまや文学の代名詞となり、ともすれば芸術としての格調高さすら求められる重要な文化の一端にまでなっているわけです。

ならばエロゲにも同じ現象が起きないだろうか、と僕は思います。エロゲという作品形式が、現代人の情緒を表現する新たな場としてより多くの人に認められるようになれば、何十年かののちエロゲという言葉はエロいゲームではなくエロゲという一つの名詞として定着するのではないか。 その頃にはもう、小説の“小”が意識されないのと同様にエロゲの“エロ”の意味が薄れ、人々は「エロゲはもともと『エロいゲーム』だったんだよ」と聞いて「へぇ、そうだったのか」と驚き、ちょっとした豆知識を得た気分になる。そういう未来がひょっとしたら来るのではないかと、僕はひそかに期待しています。

百年後にエロゲが現在の小説のような地位になれているか、などとそこまで大げさな夢を抱いているわけではありません。しかし21世紀初頭の日本において、エロゲという新しい形式の中で、シナリオが驚くべき発展を遂げ、哲学や文学さえ含んだ幅広い物語作品群が次々と生み出されたということは紛れもない真実です。そしてちょうどその時代と場所に居合わせた大衆の一人として、僕は新しい文化の芽を低俗だと蔑む側ではなく、その軌跡を語り継ぎ、その可能性を応援する側の人間でありたいと思っています。エロゲは、たしかに高尚なものではありません。しかし人間の文化にとって何より大事なのは、高尚さではなく多様性だと思うのです。多様な発展があれば、高尚さの感覚も人々の中で時間とともに磨かれていくはずです。国産エロゲの誕生からおよそ30年、その道のりの中で、既に一つの文化として成立するために十分なほどの豊かな多様性を獲得したことは事実であり、今後もエロゲ作品について様々な試行錯誤が行われ、そして現代人の心の糧となってくれるような味わい深い物語がたくさん生み出されることを願ってやみません。

ちなみにこのブログでは、シナリオ重視ではない、いわゆる“エロ重視のエロゲ”についてはあまり積極的に扱っておりません。僕は「エロゲ」を「漫画」や「アニメ」と並べて捉えているので、エロ重視の漫画が「エロ漫画」、エロ重視のアニメが「エロアニメ」ならば、エロ重視のエロゲを「エロエロゲ」と便宜上よく呼んでいるのですが、エロエロゲもまたエロゲの多様性を構成する重要な作品群だと思っているので、ないがしろするつもりは全くありません。ただ文学の話題を取り扱うとなれば官能小説ではなくやはり一般小説を中心にすえるのが普通ですし、それと同様の感覚で、エロゲを論じるときもエロエロゲはあくまでマイナーなものとして捉えるというのが僕のポリシーですので、ご理解いただければと思います。

最後に「エロゲ」という名称についてですが、これはやはり「エロ」という語がそのまま入っているので印象としてはよろしくないと僕自身も思います。ですがこれに代わるような呼びやすい名称が現れないというのが実情です。非18禁も含めて「ギャルゲ」という名称もありますが、これも結局エロよりはマシという程度で作品群の本質を突いた名前ではありません。時々聞くのが「ビジュアルノベル」「ノベルゲーム」ですが、これだと長いので「ビノベ」「ノベゲー」と略せばそれなりにスマートではあります。が、やはりいまいちパッとしない印象が拭えず、結局どれも「エロゲ」の語呂の良さには及ばないように感じます。上でも書きましたが、エロゲのままでも時間が経てばエロの印象は消えてくれるのではないかと楽天的なことを考えたりしている次第です。ちなみにこのブログでは非18禁も含めて「エロゲ」と呼称しています。これには抵抗感を抱く方もおられるかもしれないとは承知しておりますが、僕が何故あえてこのように呼ぶかの理由は、この章で述べたことが答えになっているかなと思います。僕が使う「エロゲ」という語は「ビジュアルノベル」「ノベルゲーム」とほぼ同義のものと認識していただければ幸いです。また非18禁であることを明確にしたい場合などには、「美少女ゲーム」という表現を用いることもあります。

【この章における文章は、主要記事の《エロゲ史概論》の第八章から抜粋したものが多くを占めます。より詳しいエロゲ史に興味がある方は、ぜひ当該記事全体を御一覧いただければと思います。】



⑤ 主要記事

僕自身の考え方がよくあらわれた記事、比較的興味深い内容だと思われる記事、手前味噌ながら綺麗にまとめることができたと感じている記事などを列挙させていただきます。オススメ記事のようなものだと思って下さい。

● 2011年11月12日: 語りえぬものの追究 [哲学]
  ウィトゲンシュタイン思想の考察、エロゲ『素晴らしき日々~不連続存在~』の批評

● 2014年01月20日: 少女と首飾りの思考実験 [哲学]
  物の同一性に関する思考実験

● 2014年03月01日: 物質と精神、どっちが大事? [哲学]
  唯物論vs観念論の議論、ニーチェとウィトゲンシュタイン

● 2012年06月20日: 日本に一度だけ存在した共和国 [歴史]
  戊辰戦争における蝦夷共和国の興亡、榎本武揚の生涯について

● 2015年02月28日: 70年越しの任務達成 [歴史]
  太平洋戦争における西村艦隊、ゲーム『艦これ』に関するエピソード

● 2013年02月01日: 文学との邂逅 [小説論]
  文学鑑賞に関する自身の遍歴、谷崎潤一郎と三島由紀夫についての考察

● 2017年05月29日: 『永遠の0』と『魔法少女まどか☆マギカ』の類似点に関する考察 [アニメ論]
  全体主義の本質、小説『永遠の0』とアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の批評

● 2013年09月20日: 現代和風を考える [ゲーム論]
  現代における和風、ゲーム『東方project』隆盛の内的素因と外的素因

● 2014年02月11日: 変と不変の狭間にて [エロゲ論]
  生命の宿命、エロゲ『ひまわり』の批評

● 2014年08月22日: 少数派精神が生んだもの [エロゲ論]
  minori作品論、エロゲ『BITTERSWEET FOOLS』の批評

● 2014年11月10日: エロゲ史概論 [エロゲ論]
  シナリオから見たエロゲの文化史概論

● 2017年05月30日: 美少女ゲーム作品にみるニーチェの思想 [エロゲ論]
  ニーチェ哲学と武士道、エロゲ(非18禁)『Rewrite』の批評





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● 「美少女ゲーム作品にみるニーチェの思想」(2015年)

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