語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-08

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[2013-02-01]  文学との邂逅  

僕は子どもの頃は文学やら小説やらが大の苦手で、そういった類の本を国語の教科書以外ではほとんど読まなかった。しかしその価値観がはっきりと反転した瞬間というのを僕は覚えていて、それは高校一年の夏、森鴎外の『雁』を読んだことだった。

なぜそれを読んだのかは昔のことなので覚えていない。文庫本を買って実家の自分の部屋で読んでいたのは確実に記憶に残っているが、その文庫本をどこの書店で何を思って購入したのかがまったく思い出せない空白となっている。まあそんなものだろう。もしかしたら学校から出された夏期休暇課題の読書感想文か何かを書くためだったのかもしれない。

だがとにかくも、その森鴎外の『雁』を読んで僕は夢中になってしまった。話の展開も妙に惹きつけるものがあったが、何より森鴎外の独特の文体によって表現されている情緒が、当時の僕の感性を根底から刺激した。「文学に目覚めた」などというと非常に浅薄な表現となってしまうが、たしかにあの『雁』を読んで以来、僕は文学小説が良いものだと思えるようになったのは事実である。

それ以来、僕は高校の休み時間や放課後に、図書室に通って本を読むようになった。高校にはわりと立派な図書室があり、おかげで僕はそこで多くの名作文学に触れることができたわけだが、興味の赴くままに読んでいったので、今から思えば選び方にかなり濃淡があった。中でも山本周五郎、井上靖、新田次郎といった作品が僕の興味を刺激し、手当たり次第に読んでいったのを覚えている。

だが、最初の『雁』と同じくらい琴線に触れる作品に出会ったのは、図書室ではなく教室においてであり、あれは受験用の現代文の問題集か何かだったと思う。そこに問題文として引用されていた谷崎潤一郎の『細雪』の一節に、僕は心を奪われた。それは、姉妹が平安神宮の桜を眺めて歩くあのシーンだった。小説好きになったとはいえ問題集の小説は事務的に読解することを心がけていた僕も、このときはさすがに唖然として問題を解くどころではなかった。こんな美しい文章がこの世に存在したのか、と。本当ならすぐさま書店に走って『細雪』を買い、全編を通読したいところであったが、当時はもう受験生になっており、勉学のほうもだんだんと切羽詰まった状況になっていたためそのときは諦めたのだった。

受験を何とか乗り越え、僕は上京した。森鴎外の『雁』の舞台である無縁坂をこの目で見ることができたときには、実に感慨深いものがあった。そうしてこれからは好きなだけ本を読めるという解放感に満ちあふれていたわけだが、大学の書籍部で僕が最初に買ったのは、山本周五郎の『菊月夜』と『夜明けの辻』だった。もちろん『細雪』のことを忘れていたわけではないが、あれはもはや僕の中で憧れのようなものと化してしまい、逆に安易に手が出せなくなってしまっていた。読んでしまったらもったいないという感覚である。

結局、僕が『細雪』をきちんと読むことになったのは随分後になってからのことで、その頃には谷崎潤一郎の他の数々の作品から、彼の並外れた日本語構築感覚はすでに存分に知るところのものとなっていたが、いよいよ『細雪』の文庫本を手にとって最初から最後まで読み終えたとき、高校時代に問題集の文章として見かけて以来、長年膨らませ続けてきたこの作品への憧れが、まったく幻滅することなく、目の前に現実として降臨したような心地を味わった。

そしてやはり僕の心を虜にしたのは、あの平安神宮の花見のシーンだった。問題集の中で見たあの一節は、もしかすると受験のプレッシャーの合間に見たからこそ余計に輝いて見えたのではないかとか、あるいはあの日に読んで以来、自分の中で神格化を重ねてしまったがゆえに実物よりもずっと美化されてしまっているのではないかとか、色々と危惧したものだったが、すべて杞憂に終わった。あの日の記憶そのままに美しく、そして何度読んでも色あせない、本物の名文であるという確信を得て、僕の心は高揚したのだった。

あの、神門をはいって大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、―――海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廓の門をくぐる迄はあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女達は、忽ち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感歎の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである。


貞之助は、三人の姉妹や娘を先に歩かして、あとからライカを持って追いながら、白虎池の菖蒲の生えた汀を行くところ、蒼竜池の臥竜橋の石の上を、水面に影を落して渡るところ、栖鳳池の西側の小松山から通路へ枝をひろげている一際見事な花の下に並んだところ、など、いつも写す所では必ず写して行くのであったが、此処でも彼女たちの一行は毎年いろいろな見知らぬ人に姿を撮られるのが例で、ていねいな人は態ゝその旨を申し入れて許可を求め、無躾な人は無断で隙をうかがってシャッターを切った。


ここでは二箇所を抜粋したが、これらに限らず、この花見のエピソード全体の文章が、僕の目には光り輝いているかのように映る。それは単に描かれている光景の美しさばかりではなく、文章を彩る修飾語句の選び方、そしてそれを構成する漢字と仮名の比率および配置といった要素までもが高度に洗練され、人物や風景そのものの醸し出す印象と絡み合うことで、その情緒を何倍にも引き立たせているがゆえであろう。そしてそれを完璧なレベルでなし得るということこそが、谷崎潤一郎の魅力であり唯一無二の才覚であると僕は考える。

かくして、谷崎潤一郎作品は僕自身の中で確固たる評価を築くに至ったのだが、日本文学史上で自分にとって至高と思う作家を一人だけ挙げよと言われたとき、谷崎潤一郎とどちらを挙げるか迷うであろう存在が、三島由紀夫である。

両者とも世間一般の認識においてかなりメジャーな文豪であるわけだが、僕の場合は、この二名の文学作品と出会ったのは比較的遅いほうだったと言えるだろう。谷崎潤一郎については先述したように、『細雪』が一種の憧憬対象であり続けたためにどうしても遠ざけてしまいがちだったことが原因である。一方の三島由紀夫は、僕の中でどういうわけか「とっつきにくい」という先入観が形成されてしまい、これまた谷崎潤一郎とは逆の理由で食指が伸びない存在となってしまっていた。いわゆる食わず嫌いというやつだ。

結果として三島由紀夫に対するそのイメージは完全に間違いであるとわかり、食わず嫌いがどれほど損失の大きい行為であるかを僕自身が痛感することになったのは、大学時代も半ばを過ぎてのことだった。

大学時代の前半は、高校時代のように直感の赴くままに読むのではなく、ある程度は「教養を身につけたい」という殊勝な心がけ(教養があればモテるのではないかという打算もけっこうあった気はするが)も芽生えていたため、国の内外を問わず有名どころは押さえるというような読み方をしていたと思う。また、志賀直哉の綴る日本語の魅力に心酔していた時期があったのだが、あれはたしか志賀直哉の全集だっただろうか、巻末の作品解説で加賀乙彦が文章を寄せているものがあり、そこで彼が「自分の文章は志賀直哉を模範としている」という趣旨のことを述べていたのを見て加賀乙彦にも興味がわき、彼の作品を読む運びになるという出会いもあった。『帰らざる夏』と『湿原』には特に感銘を受け、今でもふと想いを馳せる傑作として深く印象に残っている。

しかし大学生活も中盤に入ると、いわゆる文学小説に対して食傷気味のような時期を迎え、読書と言えばむしろ哲学のほうに傾倒していた。また旅行好きであったことも相まって紀行というジャンルに心を惹かれ、宮脇俊三や五木寛之の旅行記に夢中になった。もちろん司馬遼太郎の『街道をゆく』も愛読した。なにぶんアパートの部屋が狭く、本棚も埋まっており、『街道をゆく』全43巻を買ったとしても保管スペースは一体どうするのかと思案を巡らせていたところ、近所の図書館に幸いにも全巻揃っていることがわかり、少々面倒ではあったが、買うのは我慢して図書館へ足繁く通ったものだった。

そんな感じで、純然たる文学小説からはしばらく離れてしまっていたのだが、そのあと僕を再び小説の世界に呼び戻してくれた作品こそが、他ならぬ三島由紀夫の『金閣寺』であった。ずっと敬遠していたはずの三島由紀夫をどうしてそのタイミングで読もうと思ったのか、これもまた記憶がおぼろげなのだが、おおかた暇潰しに本屋に入ったときに何かの弾みで買ってしまったのだろう。だが理由はともかくとしても、そのページを開いて読み進めていくうちに「ああ、やっぱり小説はいいな」という実感が僕の中によみがえってきた。

何より驚いたのは、三島由紀夫の文章の読みやすさである。どうして僕は「とっつきにくい」などという印象を持っていたのか謎である(三島由紀夫の生き様がいわゆる熱血なイメージなので、小説もゴツゴツしていて読みづらいに違いないという発想だったのかもしれない)が、実際は完全に真逆であった。むしろ頭にすらすらと入ってくるではないか。哲学書や紀行文といった論理的あるいは説明的な文章に慣れていたはずの僕の脳が、何の違和感もなく読み進めることができた。それは三島由紀夫の綴る文章もまた同様に理知的であったということではないかと思う。

もちろん彼の用いる日本語の一語一語には独特のこだわりが感じられるし、そこに非常に文学的な美しさがある。しかし、だからといってギラギラとした婉曲まみれの文章ではなく、目の前の情景を必要十分に記述しており、彼自身の思考様式が理路整然としていることがありありと伝わってくる。

金閣は雨世の闇におぼめいており、その輪郭は定かでなかった。それは黒々と、まるで夜が結晶しているかのように立っていた。瞳を凝らして見ると、三階の究竟頂にいたって俄かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。しかし嘗てあのように私を感動させた細部は、ひと色の闇の中に融け去っていた。


幻の金閣は闇の金閣の上にまだありありと見えていた。それは燦めきを納めなかった。水ぎわの法水院の勾欄はいかにも謙虚に退き、その軒には天竺様の挿肘木に支えられた潮音洞の勾欄が、池へむかって夢みがちにその胸をさし出していた。庇は池の反映に明るみ、水のゆらめきはそこに定めなく映って動いた。夕日に映え、月に照らされるときの金閣を、何かふしぎに流動するもの、羽搏くものに見せていたのは、この水の光りであった。たゆたう水の反映によって堅固な形態の縛めを解かれ、かかるときの金閣は、永久に揺れうごいている風や水や焔のような材料で築かれたものかと見えた。


力強く、かつ静謐な美というものが彼の文章の中にはあるというふうに感じる。

こうして僕は三島由紀夫作品を好んで読むようになり、時系列的にはその後しばらくして谷崎潤一郎の『細雪』を読み、やがて僕の中で日本文学と言えばこの二人であるという認識を持つに至ったわけであるが、谷崎と三島がそれぞれ描き出す美の性質は、ちょうど対照の関係にあるのではないかと僕は思っている。

つまりは谷崎潤一郎の文章が非常に感性的・耽美的であるのに対し、三島由紀夫は冷静で理知的に事物を表現するという、そういう傾向があるのではないだろうか。そしてその二者対抗の構図は、つきつめるならば「あはれ」vs「をかし」という、日本文学の底に存在する二大概念を彷彿とさせる。これは紫式部の『源氏物語』と清少納言の『枕草子』を比較するときによく使われる言葉であるが、つまりは千年の昔から、耽美的な「あはれ」に対する理知的な「をかし」という構図は、手を変え品を変え、時には混ざり合いながら、しかし近現代文学にも尚その二流派は渾然と在り続けているのではないか、という解釈を僕は持っている。

もちろん源氏物語と枕草子は物語と随筆というジャンル自体の差があるわけで、それをそのまま谷崎潤一郎と三島由紀夫の小説比較に当てはめるのはかなり大雑把な議論であろう。また、文学界隈には三島由紀夫を耽美派として数える人々もいるようなので、万人に納得のいく捉え方というのはなかなか生まれづらい部分ではあるのだろうが、先述した解釈も一つの視点としては意義深いのではないかと思う。

そもそも小説という物語芸術である以上、それはあくまで感性的なものであることを避けられないが、しかし文学の媒体となる言葉あるいは文字は、人間の理性が生み出した産物でありその象徴でもあるという面を持つ。芸術の中でも特に文学というものは、理性と感性との狭間で営まれる試みとしての傾向が強いと言えるのではないだろうか。だとすれば、そこには両極の間で往復を繰り返しながらバランスを模索する過程が必要不可欠であり、各々の側で文学作品としての極大値を見出したのが、日本においては谷崎潤一郎と三島由紀夫であったと捉えることもできよう。(無論、これは僕の主観であるから、それぞれの側で挙げるべき名前は各人によって異なってくるのではないかと思う。)

ともあれ、以上が僕の大まかな文学遍歴ということになる。このように書くと最近の小説は読んでないのかと思われるかもしれないが、今回の文章では触れなかったものの、むしろ新しめの作品のほうが好きな場合も多く、その時々でちょくちょく読んでいる。いわゆるライトノベルも好きである。ミステリについては長らく門外漢なところがあったが、近年読み始めて目下勉強中(?)だ。最近は警察小説にはまっている。今後また古今東西を問わず面白い作品に出会ったら、このブログでも折に触れて紹介させていただくつもりである。


■ 参考作品
・谷崎潤一郎 『細雪』 新潮文庫 (1955年)
・三島由紀夫 『金閣寺』 新潮文庫 (1956年)


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