語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-05

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[2014-07-02]  有終の美へ  

アニメ『ラブライブ!』が、堂々の最終回を迎えた。そして先日発売されたBD1巻の売り上げは、8万2千枚。なんと、あの『エヴァンゲリオン』を抜いて、TVアニメ史上最高の初動記録である。

しかし、そんな数字にだまされてはいけない。『ラブライブ!』はアイドルアニメであり、現実に各キャラの声優たちによるライブが開催されるのだが、そのチケット申込券がBDに付いてくるのである。まごうことなき“特典商法”である。例のAKBの握手券ほどではないが、(そもそも2次元のキャラと握手しようがない)、しかし純粋にアニメの出来を反映した数値ではないということは事実である。

だから、いくらアニメ史上の最高記録であろうと、その数字を根拠に「ラブライブは最高のアニメだ」などと言うのは愚の骨頂である。

しかしながら、ラブライブは近年のアニメ作品の中で、やはりひときわ輝くものを持っていた。それは、アニメの脚本である。この脚本がなければ、いくらキャラクターが魅力的だろうと、僕は絶対にBDを買わなかった。

しかしながら、ラブライブは近年のアニメ作品の中で、やはりひときわ輝くものを持っていた。それは、アニメの脚本である。この脚本がなければ、いくらキャラクターが魅力的だろうと、僕は絶対にBDを買わなかった。

ラブライブは基本的に1期の脚本のほうが世間的にも好評のようで、僕自身もそれは同じである。大きな挫折を一度挟んでからの成長物語という極めて王道のストーリーだったが、それを見事な躍動感で表現してみせた。ただ、王道であるがゆえにこういった場で論じるべきことはあまり無く、ただアニメを見て感動するというその過程だけで十分に心の糧となりうる作品だったと言えるだろう。

対して2期は、やや高度な解釈を必要とするシーンがいくつか散りばめられていた。また1期のようなわかりやすい話の流れが一本通っているわけではなく、キャラクターの掘り下げシナリオを随時付け足していったようなちぐはぐ感もあり、構成に難航した様が伺える。だがファンサービスとしてはうまく全体を網羅して目的を果たしたし、終盤においてクライマックスへと収束させていった展開はやはり素晴らしかった。

そんなわけで、ここでは2期の脚本について自分が抱いた感想をまとめてみたい。


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まず1話であるが、全体の構成としては「1期を受けて2期を始める」という趣旨を十分に満たしており、安定感と同時にさらなる飛翔を感じさせるスタートだったと言えるだろう。

1期の始めは廃校の知らせに誰もが悩む中、ほのかがアイドルをやろうと一人で走り出した。2期は、ラブライブの出場を躊躇するほのかを皆が後押しして、ほのかが再び走り出す。成長した部分が明確に対比されつつも所々で1期の懐かしいシーンと重なる、この絶妙なバランスを噛み締めたい。

OPもまた2期にふさわしい絢爛さを備えている。1期は「始まり」であり、まだ不完全ゆえの勢いと希望を感じさせるOP曲であったが、2期はその前向きな姿勢を保ちつつも、既に一旦完成された物語としての堂々たる輝きを纏った曲であり、その確かな足場から奇跡さえ起こせそうな予感を与えてくれる。

OPから我々がさらに読みとるべきは、作中に出てきた「卒業」という言葉も併せて鑑みるに、物語が確実にフィナーレへと歩を進めていることである。我々としては誠に寂寥の極みであるが、一方でそれは祝福の瞬間でもある。よくよく心構えした上で、「有終の美」を正面から迎え入れたいものである。そう思わせてくれる走り出しであった。

さて2話からはμ'sにおける様々なエピソードを通して、それぞれの登場人物のキャラクターの掘り下げが行われる。全体の中での位置づけとしてはやや流れが曖昧になりがちな部分であったが、一話一話を単体で見るとどれもよくまとまったシナリオだったと言えるだろう。(6話については一部に盗作疑惑騒動があり、個人的にはあれはオマージュの範囲内だとは思うし、最終的にもそのような結論で収まったようだが、流石にやり方が雑だったので批判の声が上がるのももっともではあった。そこは要反省であろう。)

だが脚本の真の魅力が首をもたげはじめるのは9話である。9話を見て確信したことは、この作品における脚本の魅力は「形式美」だということだ。それは包括的な視点でこそ高く評価される一方で、部分的・分析的な見方をしてしまう人にはどうしても粗が目立ち、作品の真価を見据える段階まで到達しにくい面があるようだ。

例えるなら、漢詩における「対句」や「韻」のようなものを内包している。漢詩において韻に従おうとするときや、趣のある対句表現を整えようとするとき、どうしても個々の言葉本来の使い方を曲げねばならない、あるいは一般的に馴染みのない表現を用いざるを得ないことがある。その一部に対して、「ここはおかしいだろ」と過剰に指摘する……ラブライブ批判は、それに似ている。

もちろん大局的にも整っていて、かつ細部も美しいというのが理想であることは間違いない。だが、現実的にはその両立というのは難しく、細部をある程度犠牲にしてでも創造すべき全体美というものの価値は否定し得ないもののように思える。

しかもラブライブの形式美は、いわゆる「王道」や「お約束」といった概念とも少し違う。ほのか達は単なるスクールアイドルではなく、もともとは自分たちの学校が好きで、廃校を阻止するために何かをしようと立ち上がったという経緯がある。学園のために頑張ってきた彼女たちが、今度は学園の生徒たちから助けられるという構図は、自己満足や自己犠牲という閉じたあり方の芽を断ち、彼女 たちの行動が決して一方通行ではないことを明確にし、クライマックスのライブを内容的にも精神的にも完成されたものにする為に必要な演出だったと言える。

単純に「学校のアイドル」というだけでは収まらない、生徒や友達のいる学園という空間に有機的に結びついた、「スクールアイドル」という新しいものを描きたいという一種の哲学。そこにこそ僕はラブライブの作品としてのすごさを感じるし、9話はそれを思い出させてくれる素晴らしい回だったと思う。

さて、それに続くラブライブの10話は本当に素晴らしかった。何が感動したかというと、あの絵馬である。雪穂と亜里沙の願いが書かれていた、あの一枚の絵馬。アニメーション作品というものの真骨頂を目の当たりにしたかのような思いだった。2期が始まったとき、「一話くらい雪穂と亜里沙の交流エピソードがあればいいな」と期待していたものの、その気配が無いままに話数が進み、尺の関係上もはや無いだろうと諦めた矢先に、このカットだ。このたった一枚の絵で、私たちの心にどれだけの想像が膨らんだことだろう。

ほんの数秒の映像で、何話分もの物語を描いてしまった。なんという妙手だろう。将棋をやっていて相手に王手飛車取りを仕掛けられたときのような衝撃を味わった。さらには、雪穂の願いが縦書きなのに対し、亜里沙が横書きで綴っているという点も、非常にリアリティ溢れる描写であり、感嘆の極みである。

「みんなで叶える物語」。雑誌企画の当初から掲げられたキャッチフレーズを、アニメのシナリオの中で再定義してみせたラブライブ10話。流石にここまでを見据えて決めたフレーズではなく、後付けではあるだろうけど、だからこそ奇跡的なセンスを感じる使い方だ。動詞の「叶える」が、実に良い味を出している。

11話に関しては、もはや感想を言葉にすることさえ憚られるような、美しいシナリオであると言わざるを得ないだろう。「スクールアイドル」であろうとする限りメンバーの卒業は避けられない。しかし「μ's」はこの九人でなければμ'sたりえないという深い絆。この二つの矛盾する条件の中で九人が葛藤の中で出した、もっとも美しい答えだったと思う。我々としては、あとはその答えをただただ応援するのみである。

最終回の12話ではついに最後のライブである。シナリオには注目していたが、ライブ映像は正直おまけ程度にしか考えていなかった僕も、次の動画を見て衝撃を受けた。



この動画の後半で、全てが解説されている。そう、この最後のライブは、新曲を用いながらも、「ダンスの振り付け」「手の動き」「キャラの配置」その他諸々の演出が、過去の今までの数々のライブの組み合わせだったのだ。しかも単なるつぎはぎではなく、一つのものとして新しく完成されている。まさしく、文字通りの「集大成」。こんな手法があるのかと、最初知ったときは目から鱗だった。今までライブ映像を注意深く見ていなかった僕一人では、到底気づけなかった。これが、これがアイドルアニメなのだ。

最初、僕はラブライブの魅力は「脚本」にある、と言った。しかし本当は、その脚本単体ではなく、それが他の要素と密接に関わりあい、血の通った脚本になっている点こそが、この作品の最大の価値だったのである。

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昨今のアニメは、「キャラクターが可愛ければ売れる」と言われ、「本当に良いものが売れない」と嘆く人が多い。しかし、ラブライブは本当に良いものが売れた一つの例として、大いに意味があると思っている。どれほどの人がアニメの出来を純粋に評価してBDを買ったのかは不明だが、「どうせチケット欲しさで売れただけだろ」と切って捨てるには、あまりにもったいない傑作である。

ただ近頃ネット上で、ラブライブ作品のファンである“ラブライバー”と呼ばれる人々が色々と問題を起こして取り沙汰されているのには辟易している。もちろん一度「問題を起こす」と認識されると些細なことでも「またか」と話題にされ、余計にその意識が広まってしまうというのはあるだろうが、それにしてもTwitter等で自らラブライバーを名乗っている若者たちの言動は、どうも知性を感じないことが多い。(ラブライバーをやたらと批判するラブライブアンチなる人々の言動も似たようなものだと感じることも多々あるが。)

これらはやはり、(子ども向け以外の)アニメ文化が以前よりもずっと低年齢層に浸透したことによる弊害だと捉えるべきかもしれない。特にラブライブは中高生の人気が男女問わず凄まじいらしく、その年代には分別の付かない者やストッパーの効かない者もまだまだ多いのではないかと思う。そうして結果的にラブライバーには問題を起こす人が多いという現象が起きてしまうわけだが、これは他のコンテンツがこれから先ラブライバーに続いて若者の間に広がれば、そのファンについても十分に生じうる現象かもしれない。

だがいずれにせよ、それは作品そのものの本質には関係ないことであって、ラブライバー関連の話題はむしろ若者のモラル低下といった範疇のほうで捉えるべきだろうと思う。あろうことかラブライブが好きというだけで危ない人扱いしたり、挙げ句の果てにはラブライブという作品そのものを見もせずに低レベルだと罵ったりするような者も散見されるが、そういうのは浅薄であるし、互いにとっても損失の大きい行為である。これはファンだけではなく作者が問題を起こしたときにも言えることだが、そういった種々の先入観にとらわれずに作品を正しく評価できる審美眼を自分は持ちたいと思っているし、ラブライブはその意味でやはり非常に優れた作品であったと僕自身は感じているのである。


■ 参考作品
・『ラブライブ!』 サンライズ (2013, 2014)


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