語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

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[2013-07-15]  学習と進化  

人間が持つ能力の中で最も重要なものはやはり「学習」ではないかと思う。何かに成功した、あるいは失敗したという記憶を、次の試行の際に生かす。これによって人間は、最初のうちはうまくいかない物事であっても反復するうちに達成へこぎつけるようになるし、そして一度成功を収めればその方法を踏襲することで、その後も目的を達成し続けることが可能になるのである。

それは意識的なものもあれば、無意識的なものもある。無意識的な学習として僕自身が「ああ、俺の脳が学習してたんだな」と後から強く自覚することがあるのは、たとえば車の運転である。昔、免許取り立てだった頃を思い出すと、道を走る分には最初からけっこう得意だったのだが、恥ずかしながら車庫入れがさっぱりだった。何度も入れかけては出してを繰り返して、ようやく車庫に収まる、という具合だったと記憶している。

しかし今では何の苦労もなく、一回でスッと車庫に入れることができる。どの位置からどの角度で入ればいいかがすぐわかるのだ。しかもそれは「あの位置がダメだったから」「あの角度がダメだったから」と具体的に一つひとつ覚えているわけではないのに、感覚として何となくわかってしまう。この「何となくわかってしまう」というのは、べつに自分が急に予知能力を身につけたわけではない。昔何度も行った車庫入れの経験の一つひとつが、意識ではなく無意識の記憶に蓄積されており、それらを総合して脳が適切な判断を下しているのだろう。まさしく無意識的な学習の成果なのである。

では一方の意識的な学習とはどういうものかというと、こちらは日常的にありふれていてわかりやすい。物を買い換えるときはまさにその典型だろう。前使っていたものが良かったからまた同じものを買う、あるいは前のが悪かったから次はもう少し良さそうなものを買う。まさしくこの思考過程である。

最近、この“意識的な学習”を凝縮したような動画を見た。ゲームというもの自体が本来、学習に満ちた遊びだ。前回はここで死んでしまったから次はこうしてみよう、という試行錯誤の積み重ねである。この動画では初見ではほぼ不可能な数々の難題を、意識的な学習を繰り返すことによって一つひとつクリアしていく様子が記録されている。



シューティングゲームの東方projectシリーズをもとにして作られた、まさしく「東方初見殺」。yukeさんによる動画である。まあネタとしても純粋に面白い動画であるが、見ているうちに何というか「こういうのを繰り返して人類は発展してきたんあなぁ」という感慨が芽生えるものでもある。

改めて考えると、「今まで出来なかったことが出来るようになる」というのはものすごいことだ。この動画の中でもプレイヤーの脳内では神経細胞どうしのつながりが目まぐるしく変化していってるのだろう。

生命の神秘と一言で表現してしまえばそれまでだが、注意すべきは、こういった「学習」は、いわゆる生物の「進化」とは別種のものであるということだ。進化とは生物が多様に変化する中で環境に適したものだけが生き残る、つまりあくまで自らが環境に合わせて変化するのではなく、たまたま環境に合った変化を進化とみなしているだけの話なのである。(現在ではダーウィン進化論が部分的に否定されているとはいえ、進化の基本は淘汰にあることは揺るぎない。)

ところが我々が何かを学習するとき、それは淘汰によるものではない。つまり自分が何人もいて、たまたま目の前の問題をクリアした自分のみが生き残り、次のライフイベントに進むのではない。そうではなく、自分という一人の人間そのものに変化が起きる。その場で、その状況に応じた状態に、自らをグレードアップする。そしてミクロ的には、脳内の神経細胞どうしのリンクが変化している。ゲームを繰り返すたびに、そのゲームをクリアするのに必要な状態を目指すかのごとく、神経細胞が自身のネットワークを組み変えていくわけだ。一体全体どんなしくみでこんなことが可能になっているのかと問いたくなる。

神経細胞そのものには当然、意思などないと思われるから、単純な化学反応の積み重ねでこういう現象が生じているのだろうが、それにしても不思議なものだ。人間の学習というものそれ自体が、進化の過程で得た偉大な特性なのである 。

さて、ここで「学習」と「進化」の違いについてもう少し詳しく見てみよう。この二つは同じように目の前の状況に対処するための変化でありながら、本質的にどこがどう違っていると言えるのか、きっちり把握しておくと面白いと思うのだ。

一つのわかりやすい解釈としては、“時間的試行 vs 空間的試行”というのが挙げられる。つまり学習は時間をかけて何度も反復しながらその結果から学んでいく“時間的試行”であるのに対して、進化は一度に大量の候補を用意しておいてその中から最適なものを選んでいく“空間的試行”であるという考え方だ。上のゲーム動画を例にとるならば、動画のように一人の人間が前回→今回→次回と、時間的に試行を繰り返しているのは学習タイプである。しかしもしPCを一万台用意して、それぞれのプレイヤーに別々の動き、つまり全部で一万通りの動きをさせ、その中の一人でもクリアできたらOKという作戦でいくならば、そこには空間的に一万という数の候補が存在しているので、進化タイプの問題解決法であると言える。

この解釈で捉えたとき、学習タイプの利点は、コストがかからないということだ。もちろん反復練習のための時間と労力は必要となるが、人件費についてはゼロと言って良い。自分の身一つあれば可能なのだ。対して進化タイプの利点は、たった一回きりの試行しか許されていないときにも問題に対処できるということである。実際に地球上で行われてきた進化はまさにその状況だ。リセットボタンを押してやり直しなどということはできず、たとえば隕石が降ってきて種族が滅んでしまったらそれで終わりである。だからこそ大量の候補を用意しておき、その中のほんの一部が困難な事態に対処できたらOKという方針をとるのである。(別に生物そのものは意識してその方針をとっているわけではなく、自然にそうなっているのだが、理に適っているのは確かである。)

ところが、実はこの“時間的試行 vs 空間的試行”モデルでは、学習と進化の違いを完全には説明できない面があるのだ。上に貼った動画を再び思い出してほしい。たしかにこのプレイヤーは時間的に試行を繰り返しているのだが、その試行の内容は単純に「様々なパターンをためす」というものではないということにお気づきだろうか。

動画では、「前回ここであんな風にやられてしまったから、今回はこういう風に動けばクリアできるのではないか」という考えにもとづいた上で試行がなされている。「前回は右端から1cmのところにいて失敗したから次は2cmのところにいよう」「2cmもダメだったから次は3cmにしよう」と、総当たりでチェックしているわけではない。総当たりでチェックするのも時間的試行には違いないわけだが、それは結局のところ進化タイプの空間的試行と同質のものである。しかし動画における学習の様子は、それらとは異質のものと見ることができないか。つまり「前回の失敗の原因を分析し、そこから成功の確率が高そうな選択を導き出している」という点において、総当たり方式よりも格段に効率的な反復試行となっているのである。

これを踏まえると、学習と進化は“因果的試行 vs 独立的試行”と表現することができるのではないかと思う。学習は、前回の試行と今回の試行とが「原因の反省」という点で結びつきを有している。それに対して、進化ではいわば全ての試行あるいは全ての候補どうしが独立しており、互いの間に情報のやりとりが存在しない。両者にはこのような違いを見て取ることができるのである。

ただ“時間的 vs 空間的”の解釈も、“因果的 vs 独立的”の解釈も、あくまでそれぞれ一面に注目した上での対比なので、どちらが正しいと決まるものでもないと思われる。見方によって変わってくる部分であろう。学習と進化の違いには、意外に曖昧な部分があるということだ。

しかし大切なのは、我々が日々の生活において何かしらの問題を解決する際に、こういった学習タイプと進化タイプの二つの対処法が存在するということをイメージしておければ、いざというときに役に立つかもしれないということである。

学習タイプの対処法は因果的試行としての性質を持ち、たしかに効率的ではあるのだが、それゆえに因果に縛られやすいのが欠点だ。上のゲーム動画は基本的に学習タイプで進めているが、もし「ここに行けばこうなってしまうし、だからといってあそこに行けばああなってしまう」などと行き詰まってしまったとき、独立的試行、つまり進化タイプの対処法に切り換えることで突破口が見つかる可能性があるのだ。要するに失敗に対する因果分析をいったん離れて、総当たりで試してみると、「あれ、意外とこの場所いけるな!」という発見があるということだ。因果的試行はえてして事象に対する解釈を固定してしまうために、各所に盲点ができてしまいがちだが、独立的試行はそれを見つけることができるのである。

これはある意味で当たり前の事ではあるが、人間はいざというときになると、意外とこの独立的試行が実践できない。なぜなら総当たりで考えなくてはならないので根気が必要となるからだ。要するに疲れるのである。しかも因果的試行に比べて単調かつ冗長な検証作業になるので、脳そのものが嫌がり(脳は変化を好む)、あえてその方法を意識させまいとしている節すらあるような気がする。しかし我々がどうしても問題を解決したいとき、学習タイプとは違った進化タイプの解決法が残されていることを思い出せれば、新たな道が見えてくるということもあるのではないかと思う。なんといってもそれは、この地球上で生命が何十億年も採用し続けてきた方法なのだから。


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