語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-08

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[2013-09-20]  現代和風を考える  

今夏のコミックマーケット(C84)にて、上海アリス幻樂団(ZUN氏)から新作『東方輝針城 ~ Double Dealing Character.』が販売された。

ZUN氏は2011年までは毎年の夏コミで新作を発表していたのだが、2012年は発表がなく、(音楽CDとしてはZUN's Music Collectionシリーズの「伊弉諾物質 ~ Neo-traditionalism of Japan.」を頒布していたようだが)、ゲームとしては実に2年ぶりの新作ということで、待ち望んでいた人も多かったに違いない。

お恥ずかしながら僕自身はまだ途中までしかクリアできていないのだが、いつも以上に面白く感じるところもあり、ネット界隈での反応を見るにつけてもかなり傑作ではないかという印象を受ける。システム面ではアイテムの上部回収に関して新しい試みがあったがそれも概ね好評で、また作品の売りの一つである音楽も今回は特に良曲が多く(これは僕自身も現時点ですでに感じている)、全体として近年で最高の出来というという声もちらほら散見されるほどだ。

まあ弾幕シューティングという形式そのものが僕はあまり得意ではないので、特に速さにはこだわらずに毎回どの作品も日々の暇を縫いながらじっくりやっているのだが、今作も少しずつ慣れながら楽しめているという次第である。

さて、新作攻略の最中に僕があえてこの記事を書こうと思ったのは、先日PC内のデータを整理していた際に、ふと自分が昔書いた文章の断片を見つけ、それが東方projectについての内容だったからだ。おそらくたわむれ半分で書いたものではあるが、一応は頷ける内容であるし、PC内から発掘されたのも何かの縁だということでここに載せてみよう。


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サークル“上海アリス幻樂団”の作る弾幕シューティングゲーム、『東方project』シリーズ。最初は一つの同人ゲームでしかなかったそれが、今ではアニメ・オタク文化の一大ジャンルを築き上げている。東方はもはや一つの社会現象と呼べるのではないか。

東方の持つ世界観が、社会にここまで浸透したのは何故か。我々はそれを外的素因と内的素因の両方から検討しなければならないが、まず内的素因として考えられるのは主に3つである。

一つ目は作品の持つ「ノスタルジックな雰囲気」である。東方というタイトルの通り、世界観は古のある種東洋的な幻想世界を基調にしており、私たちはそれにどことなく懐かしさ、ひいては親しみを自然に抱けるのである。ゲームの設定の中には日本神話あるいは柳田民俗学といったものに深く根を下ろしているものもあり、特に一気にプレイヤー層を広げたと言われる『東方風神録』が、テーマ的にもまたキャラクター的にも神や妖怪と言った日本の原風景を強く想起させるものであったことは偶然でないと思われる。

内的素因の二つ目は、「キャラクターの幅の広さ」である。これは一つ目の素因と一見矛盾するものであり、実際にタイトル上は「東洋的な幻想世界」であるはずが、windows版一作目となる『東方紅魔郷』では吸血鬼や洋館という、いわば思いっきり西洋風なものを題材としてしまっているのである。(そのギャップをあえて狙ったと制作者は後に語っている。)しかしてその冒険は、ゲームの世界観の幅を無限大に広げることにつながった。巫女がいて魔女がいて、メイドも吸血鬼も神様も閻魔大王もいる。60を越える個性的な登場人物の中に、どれか一人は自分の心の琴線に触れるキャラが存在することだろう。

そして三つ目が一番大事なのだが、「音楽」である。上記の理由でこの東方という作品群に興味を持って入ってきた者を、この良質な音楽によって物語世界に完全に引き込む。また内的素因の二つ目としてあげた「キャラクターの幅の広さ」はたしかにコンテンツとして有利な点ではあるが、一歩間違えると雑多で統一性のない世界観を生むだけで終わってしまい、プレイヤーの心が離れていってしまう原因となりかねない。しかし東方においては、様々なキャラクターが生み出す多様性を音楽という一本の糸で束ねることに成功しているとともに、音楽自体によってプレイヤーの心を惹きつけるという作用までもが働くのである。

この3つの段階的素因によって、東方はファンを指数関数的に増やすことに成功したと言ってもいいだろう。
しかし、以上で述べたことはあくまで内的素因に過ぎず、実は社会という外的素因に、この東方という作品が見事に適応しえたという事実はこれら内的素因以上に重大なものであるが、これまであまり省みられることはなかった。

本項では、東方という一つの作品のもつ内的素因と、それを取り巻く外的要素との関係から東方ワールドの発展史を根本的に追い直すことを主軸とし、さらには今後の社会におけるゲームをはじめ、種々のコンテンツに何が求められ、どうあるべきなのかを、二次元史における構造的観点から提示する。

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……以上である。

キャラクター数を60と言ってるあたりに時の流れを感じるが(現在は100くらいだろうか)、コンテンツ分析自体はこの時期でも十分可能であっただろうし、実際に内的素因3つについてはそれなりに本質を突いているように思う。

だが、その後の“外的素因”とは一体何だろうか。我ながらこれがけっこう謎である。

この続きの文章が存在しないし書いた覚えもないので、おそらく冗談半分でそれっぽい文章を書いてみただけで、実は外的素因までは真面目に考えておらず、適当に雰囲気のある言葉をでっち上げたという可能性がある。ただもしかしたら漠然と思い当たるものがあって、それを明文化するほどには考えがまとまっていなかっただけという可能性もある。

自分の文章なのに数年経つと当時何を考えていたかがさっぱりわからなくなってしまうのは滑稽だが、まったく文章が存在しなければ気になりすらしなかったものを、中途半端に残っているから余計たちが悪い。だが、今あらためて外的素因が何かを考えてみるのも一興かもしれない。

内的素因が言ってみれば「作品そのものの特徴」であるならば、外的素因とは「作品のその特徴が好きになるような社会状況」ということになる。したがってどんな作品のヒットに対しても、多かれ少なかれ内的素因と外的素因は存在するはずである。もちろん内的素因がどんな時代のどんな人々にも受けるような普遍的な魅力であれば、外的素因はそのぶん説明しづらくなるのだが。

僕が過去の文章で上げた内的素因を振り返ってみると、まず2つ目の「キャラクターの幅の広さ」、これはかなり普遍的魅力だと言える。また3つ目の「音楽」も、音楽が良ければ作品の吸引力も上昇するというのはおそらくどの時代にも通用する。ただ、どのような音楽が受けるかは時代や社会によってかなり異なることが予想されるので、ZUN氏の作る曲が現代人の要請にうまく答えたということは言えそうだ。では氏の作曲のどういった部分がこの時代の人々の心を刺激したのか。その回答は、1つ目の内的素因に帰着するのではないかという気がする。

僕が1つ目として挙げた「ノスタルジックな雰囲気」、これに対しては外的素因を掘り下げることができるのではないかと考える。ノスタルジックという表現だと漠然としているので、より具体的に「和の郷愁」と言い換えたほうがいいかもしれない。世界観、ストーリー、音楽のあらゆる面において東方作品の根底に流れているのはまさしくその観念であり、そしてこの点においてこそ、東方は現代日本人が潜在的に抱いていた需要にずばり応えたのではないだろうか。

「日本人には和風の雰囲気が受ける」というのは、字面だけ見ると当たり前のような気がしてしまうが、コンテンツの歴史を実際に見てみるとそれはあまり当てはまっていないことに気付く。漫画でもアニメでもゲームでも、和風と言えるものが大ヒットを喫した例はどれほどあるだろうか。もちろん現代日本を舞台にした作品は多いし、日本人の根底にある和の精神、つまり仲間を大切にするだとか、自分の身を挺しても誰かを守るだとか、そういった姿勢はむしろかなりの作品に見ることができる。ところが時代を遡って、明治、江戸、戦国、鎌倉、平安……などと考えてみると、これらの時代のいかにも和風な情緒を描いた作品は主要タイトルの中ではかなり珍しい存在で、とても「和風のほうが受ける」とは言い難い状況だろうと思う。

明治としては漫画で『るろうに剣心』が真っ先に思い浮かぶが、上記のことを踏まえるとかなり意外なヒットだったと言えるだろう。(実際、作者は連載前に「ジャンプで歴史物は受けない」と忠告されたというエピソードがある。)また戦国に関しては、『信長の野望』シリーズをはじめとする戦闘シミュレーションゲームが昔から人気を得ているわけだが、これはやはり戦闘要素が魅力の中核をなすコンテンツであり、和風の情緒という意味合いは比較的薄いように思われる。

そもそも歴史物は時代考証にかなりの手間がかかるので制作者側からも敬遠されるというのはあるだろうが、西洋中世風の作品はありふれていることを鑑みると、日本中世風のものには何かしら特殊なストッパーがかかっているような感じを受ける。RPGゲームで主人公と言えば西洋の剣と鎧をまとった勇者であるし、ファンタジーと言えば武士ではなく騎士であり、陰陽師ではなく魔法使いを想像するのが普通だろう。しかもそれらは中世風なのに時代考証を無視した完全な虚構でも許されているわけで、日本の中世風の場合だけ「時代考証が手間だから……」と避けるのは合理的ではないように感じられる。

どうして日本人には和風が受けないのであろうか。これに対する説明は、現状で二点思いつく。一つはまずすぐ上に述べたことと密接に関わるが、「日本の場合だけ時代考証にこだわってしまう」という性質が我々にあるからではないだろうか。つまり他国の中世が舞台ならファンタジーにしようがどうしようが構わないのだが、自国の過去を舞台にする以上、あまりいい加減なことは描きたくない/描いてほしくないという心理が働くのではないかということだ。

そしてこれに加えてもう一つ、日本人の和風に対するストッパーとなりうる心理が、「自分の殻に閉じこもりたくない」というものである。これは、日本が四方を海に囲まれた島国であることの裏返しとして生まれる感情ではないかと僕は考える。つまり自国の歴史や文化だけ見て閉じこもろうと思えば本当に閉じこもってしまえる環境なので、それをやってしまうと日本そのものの発展がなくなって危機的状況に陥るということを深層心理レベルで認識しているから、「海外の文化に触れよう」という意識が強くなるのではないかということだ。

ちなみに歴史上、本当に閉じこもってしまったのが江戸時代の鎖国になるわけだが、それを解除して明治時代に入った瞬間、日本人は凄まじいスピードで西洋文化を学んで吸収した。それは「海外の文化に触れたい」という日本人の根源的欲求が、二百余年の間に蓄積してはちきれんばかりになったがゆえの反動だったのではないかと思う。現代は江戸時代とは違って海外の情報などはネットですぐ手に入る便利な社会となり、欲求は蓄積することはなくなっただろうが、日本人の心の中には常にその外向きベクトルの欲求が存在し、それが漫画やアニメ、ゲームといったコンテンツ文化にも影響しているように思われる。

まあ有り体に言うと、「和風な作品を鑑賞しても進歩がない」と感じてしまう傾向を、日本人は強く持っているということだ。海外の要素がないとどうしても自国だけで小さく収まってしまうように思えて、何となく不安に感じるのである。ところがその一方で、日本人は「和風なものを見たい」という感情も無論持ち合わせている。自国の文化なのだからそれは当然の心理だ。したがって、日本人はその両極の間でバランスをとりながら文化に接しているわけだが、問題は、コンテンツ自体が未熟な段階ではその微妙なバランスに対応しきれないということである。

どういうことかというと、たとえば何かの色を決めるときに「黒要素が好きだけど白要素が必要だから灰色にしよう」と思ったときに「黒と白しか無いので二択で決めて下さい」と言われてしまったような状況だ。そうなれば「全部黒よりは全部白のほうがマシか」と、どちらかを妥協して選ぶほかない。日本人は、今までのコンテンツにおいてまさに「完全和風よりは完全西洋風のほうがマシか。何も新しい要素がないのはやっぱり不安だし。」というような判断を下してきたのではないか。ゲームを例にとればわかりやすい。初期において人気を博したゲームとしては『スーパーマリオ』が有名だが、もしマリオが武士で、ピーチ姫が和服の姫だったとしたら、果たして同じような人気を獲得しただろうか。少なくとも僕は、「うーん、そこ和風でおさまっちゃうのか……」とちょっと損をしてしまったような気持ちになる。実際の西洋風は西洋風で完全に納得がいくわけではないが、「まあそれはしかたないか」と妥協する。外向きベクトルの必要性が勝るのだ。

要は「黒が本当は好きなのに、白要素が絶対必要だから、全部白にするしかない。」という状況がずっと続いてきたのである。そしてコンテンツの多様性がどんどん進化していく中でも、この“黒と白の二択”状況はなかなか解消されなかった、つまり“灰色”という選択肢をなかなか作り出すことができなかった。何故かというと、和風と洋風ではあまりに毛色が違いすぎるからである。現代を舞台とするなら、現実社会でも両要素がそれなりに溶けあっているから特に意識することなくストーリーを書くことができる。ところが歴史物、特に日本の江戸期以前に時代を設定しようとすれば、「日本を舞台とするか」or「西洋を舞台とするか」で、否応なく「和風」or「洋風」の二択を迫られ、その中間が存在しないわけである。そして仮にファンタジーにして両者を混ぜ合わせようとしても、中途半端で何がしたいのかよく分からない作品になってしまうだけだという危惧が、業界全体に存在していたのではないだろうか。結局、灰色という選択肢は作られず、「黒がいいけど白にするしかない」という社会になっていた。これこそが“外的素因”ではないだろうか。

そこに、『東方project』が現れたのである。東方作品は「和の郷愁」を基調としながらも、和風コンテンツが今まで足踏みするしかなかった様々な障害を解決していく要素を有していた。まず「幻想郷」という架空の世界を舞台とすることで、時代考証義務を完全に断ち切ることができた。次に登場人物として巫女以外に魔法使いやメイド、さらに日本の妖怪のほかに妖精や吸血鬼までも登場させることで「海外要素がないと不安」という心理にも見事に対応してみせている。そしてそこまで無節操にいろんなキャラを出してしまえば作品として中途半端になってしまうという危険を、これまた幻想郷に「何が起こってもおかしくない世界」というアイデンティティをうまく持たせることで絶妙に回避している。さらには、仮にその危険にあって失敗したとしても、同人だから何も問題は無かったのである。おそらくもしどこかのゲーム会社の商品としてこの作品コンセプトが提案されたとしても、リスクが高すぎて会議を通らなかったのではないかと予想する。リスクを考慮しなくていい趣味の同人ゲームだったからこそ、“灰色”への挑戦が可能だったのである。

そしてさらなる決定的勝因は、その“灰色”を音楽によっても再現したということである。まさしくZUN氏の才覚ここに極まれりと言いたくなるが、彼のつくる音楽は、見事に和風と洋風のアウフヘーベンになっているように思われる。上に挙げた過去の文章でも触れているが、和洋ごった煮の幻想郷が不思議な統一感によってまとめられているのは、紛れもなく音楽によるところが大きい。

つまるところ東方は「黒を基調に据えつつ白も含んでいるような灰色」を体現した。先述したような“外的素因”の状態にあった現代日本人にとっては、こう叫びたくなるものだったに違いない。「これだ!まさしくこういうのが見たかったんだ!」と。東方コンテンツの爆発的ブームは、まさにこのように説明できる現象だったのではないだろうか。

「和風が根底にあるけれどもそれに縛られない自由度がある」という幻想郷の雰囲気こそが、現代日本人が潜在的に求めていたものであり、そしてこの概念はコンテンツの中だけでなく、今後の現実社会において「現代和風」というものを考えていく上でも重要な鍵となっていくのではないかと思われる。実際に建築の世界においては「和モダン」というスタイルが最近は脚光を浴び、人口に膾炙しつつある。社会全体がようやく和風というものを現代文化の枠組みの中で再解釈できるようになってきたということかもしれない。今までは「とりあえず白で!」と大雑把に済ませてきたところを、最近は「黒だけどちょっと白混ぜて灰色な感じで」と細かく指定できるようになってきたのである。

ゲームだけではなく他のコンテンツにおいても和風が積極的に取り込まれているのが、その一つの証拠でもあるだろう。たとえばジャンプの看板漫画には『NARUTO』、『BLEACH』、『銀魂』がある。『NARUTO』はまず忍者という極めて日本的なイメージのテーマを題材にしつつ、チャクラというインド風の概念を忍術に取り込むなどの斬新な設定が見られる。また「木ノ葉隠れの里」などの架空の世界設定によって時代考証義医務は回避している。『BLEACH』は死覇装や斬魄刀など、武士の袴や日本刀に題材を得ている一方で登場人物の言動はきわめて現代的で、また死神とは異なる滅却師の存在も西洋風要素として一役買っている。尸魂界という架空の世界を設定することで時代考証義務はなくしているし、江戸時代風の街並みの尸魂界と現代の現世をうまく絡めてながら描くことで作品世界に多様性を持たせている。何より尸魂界(ソウル・ソサエティ)や虚(ホロウ)など、表記は漢字でありながらも読みは横文字という用語を各所に散りばめているのも、細かい点ではあるが“古風になりすぎない和風”ための装置として働いていると言えそうだ。『銀魂』もまた江戸期を基調とする風景に宇宙人という突飛な要素をぶつけて架空性を格段に増した上で、幕府、真選組(新撰組)、攘夷志士、そして刀による戦闘など、古い日本の代名詞となるような出来事を、きわめて現代的なセンスのもとで時には愉快に、時にはシリアスに描き出している。

『NARUTO』が1999年、『BLEACH』が2001年、『銀魂』が2004年に連載を開始し、そしてこれらの作品が爆発的な人気を得て今なお続いているということは、非常に象徴的だと考える。(ジャンプでの歴史上において、和風要素を持った作品が三つ同時にビッグタイトル化するというのは初めてなのではないだろうか。)また、東方projectのWindowsにおける第一作『東方紅魔郷 ~ the Embodiment of Scarlet Devil.』発売が2002年であり、ここから加速度的にファン数が増加していったことを考慮すると、ちょうど『NARUTO』『BLEACH』『銀魂』とも時期が重なるのである。

また少年向けだけではなく少女向けのコンテンツにおいても、ちょうどこの時期に和風作品が増える。女性向けの恋愛シミュレーションゲーム(いわゆる乙女ゲーム)の名作である『遙かなる時空の中で』の第一作が2000年に発売し、その後シリーズ化するし、2004年には『遙かなる時空の中で3』とともに『幕末恋華 新選組』がヒットを期して、乙女ゲーム業界が本格的ににぎわい始める。また2006年に『緋色の欠片』、2008年に『薄桜鬼』が発売されて大人気となるのも、その流れが生んだものであろう。これらの作品は全て和風要素が多くを占めており、『緋色の欠片』は現代を舞台とする和風ファンタジーであるが、その他は全て江戸期その他の、過去の時代の日本を舞台とするものである。しかし一方でこういった作品では登場人物がチョンマゲを結っているわけでもなく、語尾が「ござる」でもない。男女ともに髪型が今風であったり話し方がくだけていたりなど、現代的な要素が適宜挿入されているのである。(直接ゲームをプレイしたわけではないので詳しいことはわからないが、他にも和風でありながら和風になりすぎないという面が随所に散見されるのではないかと推測する。)

さらに面白いことに、女性向けではライトノベルにおいても和風要素が隆盛の道をたどる。女性向けライトノベルの角川ビーンズ文庫が2001年に設立されるが、いまやこの文庫には平安や江戸、あるいは現代を舞台とした和風ファンタジーとして、かなり多くのシリーズが存在する。これは男性向けライトノベルにはほとんど見られない傾向であり、男女でどうしてこのような差が生じるのかは、これはこれで一つの大きな考察対象になりうるのではないかと思う。しかし、かといって男が和風に興味がないというわけではなく、むしろ男には『東方project』という巨大なコンテンツが存在し、それが“灰色”を求める声にあまりに適合するものであったために、和風需要がすべて東方の中で展開されたということなのかもしれない。女性には東方に当たるものがなかったために、様々な作品に和風需要が分散したのではないか。やや極端な分析であるが、考え方の一つとしてはそれなりに筋は通っていると思う。

以上のことをまとめると、要するに現代日本人は「広がりをもった和風」「さらっと和風」といったものを求めており、そこに『東方project』をはじめとする様々な作品が対応してみせた、あるいはそういった細かい需要に対応できるほどにコンテンツ業界が成長したと言えるのではないかということである。もちろん和風や洋風といった概念を感じさせない現代を舞台とする作品が、コンテンツの多くを占めていることは現在もそれほど変わらないが、今まで「あまりメジャーになってはならない」という制約があるかのように隅っこのほうで細々と描かれていた和風作品が、堂々と表舞台に立って脚光を浴びるようになったということは、意義の大きい変化であろうと思う。黒一色だと小さく閉じこもってしまうような不安感が大きくて敬遠していたが、白が混じった黒、つまり「灰色にすればちょうどいいじゃないか」ということを、皆が具体的な実感として気づきはじめたのである。

そしてこの感覚こそが、「現代和風」のヒントにもなるのである。そもそも「和風」とは、過去のどの時代においてもこの感覚を有していたのではないだろうか。国粋的な方向に走るのではなく、海外から渡ってきた文化を積極的に学び、吸収し、自らの糧としていく中で次の新しい和風を定義していく、この過程そのものこそが「和風」であり、日本文化の真髄なのである。このことで僕がいつも連想するのは、プログラミング言語における「X=X+1」という記述だ。数学的には破綻しているがプログラミングにおいては正しい式であり、過去のX値に1を加えたものを新しいX値として、以降の演算を行えという命令文である。これをもじって、僕は「和風=和風+1」であるという式を提案したい。和風は、常に進化していくことで和風たりえる。そして「現代和風」もまたその行為の産物たるべきだと僕は考える。

ある意味では和風/洋風を意識しないような現代日本を舞台とした多くの作品もまた、それ自体が現代和風の一つの形と言えるだろう。だが東方作品の舞台である「幻想郷」の特徴は、和を基調としながらも何が起こってもおかしくない世界、つまり「和風なのに多様性がある」という状況をより際立たせてみせたことである。この世界観はまさしく日本人の根底にある“八百万の神々”思想そのものの体現ではないかと思う。実際に東方の登場人物の中には、古事記や日本書紀といった日本神話の神々をかたどったようなキャラクターも存在するが、それだけではなく「どんな異質な存在も幻想郷の一員として取り込んで、最後はみんなで酒を飲む」という東方ワールドの雰囲気こそ、過去・現在・未来のどの時代の「和風」にも通ずる本質ではないかと思うのである。

こうして2000年代後半にかけて巨大コンテンツへと成長を遂げた『東方project』は、現在ようやく安定期に入り、むしろこれに代わって『艦これ』が今まさに爆発的なブームの最中にある。この『艦これ』もまた、昔の日本の軍艦をモチーフにした“和風”ゲームであるという点は非常に興味深い。しかも和風とはいえそこまで和風要素が濃いわけではなく、軍艦の名称や一部のキャラクターの袴姿などに和の情緒をたしかに感じる一方、現代的な制服や水着姿のキャラが多数いたり、あるいは口調が外国語混じりのキャラもいるなど、和風に徹しきらない多様性も持ち合わせているのである。(実際「金剛」の人気が高いことは、日本人の外向きベクトル欲求に応えるものとして作品全体の人気にも重要な役割を果たしているようにも思う。)やはり「さらっと和風」くらいがいいのである。

とはいえ、東方の人気もまだまだ根強い物がある。先日、ある同人誌ショップに立ち寄ってみたのだが、艦これコーナーがかなり大きく設けられている一方で、東方コーナーはさすがに多少の縮小は余儀なくされているものの、それでもしっかり存在感を保持していたのは流石だと思った。艦これもこの東方のように息の長い作品になってくれればと願うとともに、今後も日本のコンテンツにおいて色々な現代和風作品が生み出されることを期待している。


■ 参考作品
・『東方project』 上海アリス幻樂団 (1996-)


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