語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-08

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[2012-02-21]  善悪の美醜  

「悪とは、いまだ人のうちに残っている動物的な性質にこそ起源がある。」


2008年にあかべぇそふとつうから発売された『G線上の魔王』は、「命をかけた、純愛」というキャッチフレーズにふさわしく、現代社会の表裏を巻き込んだとある事件を巡って、その真相の果てに紡がれる運命的な恋愛を描いたものであるが、同時に「悪」や「家族」といったテーマを軸に、人間の信念や心情の機微を描き出すヒューマンドラマでもあった。

都会の平和な学園に通うかたわら、養父のビジネスを手伝い、有名企業のブレインとして存外な大金を動かす日々を送る主人公。そんな中、裏社会に「魔王」と名乗る者が出没し、数々の事件を影で操っていることが明らかになっていく。「魔王」の正体、および目的は何なのか。手がかりを探す主人公の前に現れた一人の少女、宇佐美ハル。ハルと「魔王」には過去に因縁があり、彼女もまた「魔王」の正体を追っているのだった。

るーすぼーい氏の描くシナリオには多くの魅力が挙げられるが、まず思いつく点としては、何と言っても世界設定の奇抜さであろう。過去作品『車輪の国、向日葵の少女』でそれは遺憾なく発揮された。日本とは似て非なる国家。罪を犯した者は刑罰ではなく、相応の「義務」を課せられるという社会制度が支配する世界。

それに比べて、『G線上』は比較的現実に近い、日本の現代社会が舞台となっている。だが、学園に通いながらも企業のブレインとして裏の顔を持つ主人公、普段は周囲に無頓着な風貌・態度をとりつつも、ひとたび推理となると驚異的な直感と思考を働かせる宇佐美ハル、そして何より、冷酷な頭脳と行動によって自らの計画を着実に進めていく「魔王」という名の敵の存在。これら個性的、場合によっては大胆とも言える各キャラクターの濃色な設定には、それだけで「何が起こるんだろう」という読者の想像をかき立て、彼らを物語に引き込む力がある。

そしてそれに続くのは、ハルと「魔王」との、目を見張るような頭脳戦だ。都会を舞台に、二人の推理と駆け引きが飛び交う様は、どこかミステリ作品を読んでいる感覚に近い。

さて、ここで『G線上』および過去の『車輪』を通して、るーすぼーい氏の描くシナリオに共通する特徴(そしてこれこそがおそらく作品の魅力のカギである)について考察してみたい。ここで自分が考えている彼の作品の特徴とは、大きく分けて次の2点に集約される。まず一点目は、上で述べたこととも関わるのだが、

(1)物語の設定に幾重にも伏線を巡らせ、ラストに向かって巧妙に展開していく構成力

である。物語において巧妙な伏線の有無は、作品の良し悪しを判断する最も重大な要素であると自分は考える。また一般的な意見から言っても、構成力というのはシナリオライターにとっての柱であることに疑いの余地はないだろう。るーすぼーい氏のシナリオにあれだけの人気が集まるのは、何と言ってもまず第一に彼の持つ「構成力」の存在が大きい。

だが、るーすぼーい氏の作品の魅力はその点のみにとどまらない。構成力だけなら、たとえ彼には及ばなくとも、十分に素晴らしい構成を持った作品を書けるライターは他にもたくさんいる。るーすぼーい氏が、他の作品に対して圧倒的なまでに異才を示している点が一つある、と自分は『G線上の魔王』をプレイして確信したのである。それは、

(2)人間の弱い部分を克明に描いてさらし出しててしまう、その容赦のなさ

である。人間の弱い面、醜い面といってもいろいろあるが、その最も根本には自己中心的な考え方というものが少なからずある。人間誰しも、「(他の人を差し置いてでも)まず自分が幸せになりたい」「自分が楽をしたい」という願望を多少なりとも持ち合わせているものである。その願望がコントロールできず、他人の立場に立って物事を考えることができない人は、「わがままな奴、自分勝手な奴だ」と言われ、周囲から嫌われる。

それは小説などの登場人物についても同じで、わがままで自分本位な主張ばかりするキャラクターは、読んでいてあまり好きになれない場合が多いだろう。主人公の一人称で語られることが多い美少女ゲームでは特にそれが顕著だ。それは、まず一人称であるが故に、他のキャラクターの内面が描かれる機会が少ないという点がひとつ。さらに主人公と同じ視点を持つ読者にとって、自己中心的な態度をとるキャラと会話等をするというのはやはり快いものではない。いまや美少女ゲームは単なる“恋愛シミュレーション”の枠にとらわれない多様性を示しているが、「美少女ゲームにおいては、キャラクターは読者にとって都合の良い存在でなければならない」という考えは依然として強いと言わざるを得ない。

だが、るーすぼーい氏は2008年の時点で、すでにその固定観念に真っ向から挑んでいる。それが最も明確に象徴されているのが、『G線上の魔王』における三輪椿姫という少女である。彼女は美少女ゲームに典型的な、主人公に無条件に好意を寄せるタイプのキャラだった。性格も良く、お人好しで純粋無垢。家族思いで、幼い弟たちの世話を文句一つ言わずこなしている。

ところがある事件に巻き込まれる中で「魔王」にそそのかされた言葉をきっかけに、彼女の献身的な性格は一変する。今まで無条件で信頼していた周囲の人を疑うということを知り、自分を犠牲にして家族の世話をすることに不満と苛立ちを感じるようになる。

「どうして自分ばかりが損な役回りなのか」、「自分だってもっともっと遊びたいのに」。今まで自分を省みず周囲に尽くしてきた少女が、自己というものを意識し、主張するようになるのだ。家族や弟に冷たくなり、街でお金を使って遊ぶようになり・・・読者は、ここでこの椿姫という少女に対して、あまり良い印象は抱かないだろう。彼女は主人公にも家族のことを愚痴るようになり、その様子を見ていると不快な気持ちにさえなってくる。「自分勝手だな」とか「わがままでイヤな感じだ」などと一瞬思ったあと、しかし我々は気付かされる。「彼女にどこか共感できてしまう」ということに。そしてそれは「自分にだってこういうわがままな一面があるからだ」ということに。

誰だって、「自分が一番大事」と考えてしまう弱さを抱えている。るーすぼーい氏は、彼女の人間としてのその一面を克明に描くことによって、決して美化しない「人間らしさ」というものを読者に痛切に訴えてくるのである。この挑戦が、美少女ゲーム業界に残留する風潮に対してどれほど革新的な意味を持ち合わせているか、実に注目に値すべきだと自分は考える。

さらにるーすぼーい氏の素晴らしい点は、彼女のように人間らしい弱さを垣間見せたキャラがそれを乗り越える瞬間までをしっかりと描き、「人間は時に弱くて醜いけれど、その中にあってなお、何よりも強く輝く瞬間があるんだ」という非常に建設的なメッセージにつなげるのである。

ただし、そのメッセージ性が一番強かったのは、今作よりもむしろ『車輪』のキャラの一人、三ツ廣さちのエンディングの方かもしれない。彼女が自堕落になってしまう弱さに抗いながら、懸命に絵を描こうとする姿は、見る者全ての心を打つものだっただろう。

そういう意味では、『G線上』よりも『車輪』の方が読んでいて涙を流す機会が多かったのは事実である。『車輪』は各々のキャラクターについて上述のメッセージ性が非常に色濃く表現された上に、それが奇跡的なまでに物語の展開とかみあっていた。すなわち、上で挙げた(1)と(2)の要素が理想的なバランスを保ちつつ、一つの作品の中で結実したのである。

それに比べたとき、『G線上』においては(1)と(2)が競合しているイメージがややある。すなわち物語の展開と、人物の内面の二点を描こうとする状況で、話のテンポが少し損なわれてしまったか、という印象を受けた。「魔王は一体誰なのか。ハルの戦いはこのあとどうなるのか」などと先が気になり、どんどん話が進んでくれればいいのにと願う状況の中で、主人公と椿姫らの交流と成長の過程が挿入されるような形になってしまい、読者としては勢いが削がれる感じを受ける。

この作品の数少ない欠点なのだが、逆にこれは美少女ゲームという形をとることで補っていると言える。好きなときにセーブして話を中断し、気分が乗ってきたときに改めて再開するということが可能だからだ。映画やアニメではそういうことは難しい。

その他、『G線上』は『車輪』と同様、美少女ゲームだからこそ表現できるという点が多い。たとえば、声。美少女ゲームでは文章が示されるから、必ずしも全てのセリフに声を入れる必要はない。だがアニメでは、基本的に全キャラの全部のシーンで声が必要となる。するとどうなるか。魔王が誰なのか、声からある程度予想が付いてしまう、という問題が生じる。もし仮にアニメ化するならば、工夫が必要となるところだろう。また小説やマンガでも、この物語は十分に表現できない。あの美しいCGや音楽、特にラストシーンの挿入歌は作品の感動を何倍にも増幅させる。美少女ゲームだからこそ描ける話。この点においてもるーすぼーい氏の作品は高く評価できる。

都会を舞台にスリルあふれる頭脳戦を描きゲームとして申し分ないエンターテインメント性を含ませた一方で、「悪」そして「家族」をテーマに据え、『車輪』とは異なる切り口で社会に生きる人間の内面に潜む弱さと強さを巧妙に描出した作品である。そこには善/悪という軸と、美/醜という軸の二つが巧妙に絡み合っているように思う。正義にも悪にも美学があり、そしてその美しさは醜さと表裏一体なのである。そういった人の生き様の妙とも言えるものを描ききり、そしてあの見事なラストで締めくくってみせたシナリオライターの実力は、ファンの期待に十二分に答えるものだっただろうし、またそれを可能にした絵、音楽、そのほか全ての演出の完成度も含めて、この『G線上の魔王』は、2008年美少女ゲームアワード1位にふさわしい作品だったと確信してやまない。


■ 参考作品
・『G線上の魔王』あかべぇそふとつう (2008)


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