語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-08

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[2012-05-27]  ラノベとは何か  

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を題材に扱っている物語作品は色々あると思いますが、個人的に特に印象に残っているのは以下の5つです。

・『銀河鉄道999』(松本零士、1977-1981)[漫画]
・『半分の月がのぼる空』(橋本紡、2003-2006)[ラノベ]
・『“文学少女”と慟哭の巡礼者』(野村美月、2007)[ラノベ]
・『素晴らしき日々~不連続存在~』(ケロQ、2010) [エロゲ]
・『輪るピングドラム』(ブレインズ・ベース、2011)[アニメ]

どれも名作ですが、この中で「銀河鉄道の夜をもう一度読み直してみたい」と一番強く感じさせてくれたのをあえて選ぶとすれば、やはり3つ目かなと思います。

宮沢賢治の生涯も絡めて物語全体のクライマックスにつなげてみせたところなど、作者の野村美月氏の溢れんばかりの表現力、そして文学に対する飽くなき愛情が感じられて、感動というより尊敬の念がこみ上げてくる作品でした。

この『“文学少女”と慟哭の巡礼者』は、野村美月氏によるライトノベル“文学少女”シリーズの第五作目にあたります。シリーズは2011年に完結してしまいましたが、今も時折ふと思い出したときに読み返すような作品集です。

野村美月という作家による全8巻の物語で、文学が大好物で文字通り“紙ごと”食べてしまう妖怪である天野遠子と、そんな彼女におやつ(=原稿)を提供する文芸部の少年・井上心葉を中心に、毎回とある文学作品のあらすじに沿ったような事件が起きるというものです。二人はその元となった物語の登場人物の心情を汲み取り、その根底にあるテーマを掘り起こしながら、それを踏まえて現実で起こった事件を解決していきます。

1巻「“文学少女”と死にたがりの道化」では、太宰治の『人間失格』。
2巻「“文学少女”と飢え渇く幽霊」では、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』。
3巻「“文学少女”と繋がれた愚者」では、武者小路実篤の『友情』。
4巻「“文学少女”と穢名の天使」では、ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』。
5巻「“文学少女”と慟哭の巡礼者」では、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。
6巻「“文学少女”と月花を孕く水妖」では、泉鏡花の『夜叉ケ池』『草迷宮』『外科室』。
7・8巻「文学少女と神に臨む作家」では、アンドレ・ジッドの『狭き門』。

錚々たる顔ぶれですが、同時に「これを選んできたか」と不思議な感銘を受けてしまうような作品選でもあります。特に、最後に『狭き門』をもってくるあたりに、作家として、そしてまた文学好きとしての作者のこだわりを感じ取ることができるように思います。

どれもやはり人類史に残る名作文学に題材を得ているだけあって、人間の美しい面も醜い面も容赦なく出してきますが、その一方で深刻になりすぎない、主人公の天野遠子風に言えば「しつこくなく、あっさりとした食感」の作品になっているところが、まさしく絶妙なバランスを体現しています。

そして、こういったバランスにこそラノベの一つの理想形があるではないか、とも思ったりします。 それはラノベに対する僕の考え方に端を発するものです。

ラノベは小説に似た形をとっていますが、それは鳥とコウモリのようなもので、実は2つの起源は全く異なっていると僕は考えています。ラノベは「小説」ではなく、「漫画」に端を発している。漫画という文化が文章に還元されて、結果として小説の形を真似て生まれた表現形態、それがラノベなのではないか、と。

それ故に、僕はわりとラノベというのは「漫画と小説の間にある中途半端な存在」という風に捉えているし、また世間的にも、最近のアニメはラノベを原作とするものが多くなっていることなど、「ラノベはアニメの脚本に過ぎない」といった位置づけがなされているようにも感じています。しかしそんな中にあって、この“文学少女”シリーズはラノベでしか表せないもの、ラノベの独自性というものを我々に強く指し示している……そんな気がします。

作品の文章の言葉一つ一つが、そして随所に挟まれた挿絵の一枚一枚があってこそ、この透き通るような、それでいて儚く、時に残酷とも言える、物語の雰囲気を形作っている。マンガや小説では、物語にこれほど味わい深い質感を持たせることはきっとできなかったと思うのです。ゆえに、この作品にはラノベという形式の一つの成熟を見ることができるのではないかと感じました。

「ラノベ」と「小説」については様々な意見や議論があるし、正確に「こうだ」と言い切れない面は確かにあります。最も単純にラノベと小説を見分ける方法は「マンガ・アニメ調のイラストレーションを多用していればライトノベル」というものですが、最近は一般小説の表紙にそういったイラストを使うこともあるようだ(もっと言うと夏目漱石の作品表紙に漫画絵を起用しているのをどこかで見た記憶がある)し、逆に数年前に創刊されたメディアワークス文庫の諸タイトルはラノベであるにも関わらず絵はほとんどないし、文章も洗練された比較的良質のものが多く、一般の小説と思って読んでもほとんど違和感がありません。ラノベも一般の小説も両方手がけるような作家もちらほら見かけます。このようにラノベと小説は、その境界線を少しずつ取り払いつつあるのが現状です。

ただその流れとは少し距離を置いて、『文学少女』は竹岡美穂氏の淡いタッチのイラストも作品全体の雰囲気に大きく貢献しており、その意味でもこの作品はもっとラノベ寄りのところでその存在感を打ち出している作品のように思えます。しかし面白いのは、この作品のメインヒロインは文字通りの「文学少女」であり、物語は古今東西の様々な文学小説を下地にしながら展開されていくという点です。内容としては「小説」を主体とする名作文学をシナリオに取り込みながら作品全体として「小説」とは一味違った「ラノベ」としての独自性を実現しているというのが何とも愉快で頼もしく、あるいはそれこそが、いかにもこの作品らしいユーモアであり魅力でもあるという気がします。

マンガを文章に還元したのがラノベであるならば、ラノベに文学を巧妙に取り込んで独自の作品世界を作り上げたのが、この『文学少女』であると言えるかもしれません。


  *  *  *


最後に、ラノベと小説の見分け方について僕なりの判断基準を語ってみたいと思います。

……と言っても難しい話ではなく、むしろ非常に単純です。自分自身が一つ注目したいことは、「ラノベを読むとき、頭の中で2次元のキャラをイメージしている」、そして「一般小説を読むとき、頭の中で3次元の人物をイメージしている」ということです。(ここで2次元とは漫画やアニメのようなキャラクターで、3次元とは現実の人間やドラマの俳優のような人物像を意味します。)しかし一般小説のほうは、現実やドラマほどははっきりした人物像ではなく漠然としていることも多いですが、少なくとも漫画のようなキャラをイメージすることは比較的稀です。

まあ当たり前と言えば当たり前の事なんですが、実はこの点にこそラノベの本質があるのではないかという気がするのです。

よくよく考えてみると、2次元キャラというのは、もとを問えば漫画のキャラクターです。そしてそれはデフォルメであり、すなわち「現実の人間をかたどった存在」に過ぎなかったはずなのです。小説の登場人物を通して現実の人間をイメージするのと同様、漫画のキャラを通して現実の人間をイメージする。少なくとも本来はそうだったはずです。

ところがその中でラノベというものを考えると、様子が少し異なってきます。なぜなら、我々がラノベを読んでイメージするのは現実の人間ではなく、デフォルメされた漫画のキャラを文章から想起しているからです。マンガという一つの表現の結果生み出されたものが、別の表現の対象となっている。これは、かなり特殊なことではないでしょうか。そしてこのことを踏まえると、上に述べた「マンガを文章に還元したのがラノベである」という現象がイメージしやすくなると思います。

一つ結論を出すと、「文章を読んでいて2次元のキャラを想像したならばそれはラノベであり、3次元の人物を想像したならそれは一般小説である」、これが作品論的には正しいのではないかと思うわけです。(3次元には漠然とした人物像も含むこととします。)……【定義①】

したがって世間においてよく言われる「マンガ・アニメ調のイラストレーションを多用していればライトノベルである」というのも、概ね正しいのです。なぜなら2次元イラストを使っていれば、読者としては登場人物の像として自然と2次元キャラを思い描くからです。

しかし、例えば夏目漱石の『こころ』の表紙や挿絵に、先生やKが漫画風のイラストで描かれていたとしたらどうでしょう。世間の定義ではラノベの分類になってしまいますが、果たして『こころ』を読みながらデフォルメされた2次元世界を想起することができるでしょうか。そもそも夏目漱石が生きていた時代には漫画など無く、書く方も現実の人間を想定しながら書いたでしょうから、そもそも2次元イメージには向かない文章になっているはずです。だからこそ、『こころ』は一般小説だと、僕の掲げた①の定義上では断定できるのです。

ただし、2次元キャラを想起しながら『こころ』を読むことも不可能ではありません。そしてそういう読み方ができたなら、その作品はその人にとってラノベということでいいのではないかと僕は思います。読み手の姿勢によって作品の分類が変わるのは妙だという人がいるかもしれませんが、2次元を想像して読んだ『こころ』と3次元を想像して読んだ『こころ』とでは、作品世界がまったく違うのではないでしょうか。それこそアニメ版とドラマ版のように。したがって前者をラノベ、後者を小説と呼んでもいいのではないかと考えます。とはいえ、それでは世の中の全ての小説が「ラノベ」でもあり「一般小説」でもありうるということになってしまうので、結局は以下のような判断基準に落とし込むのが現実的かもしれません。

すなわち「2次元のキャラをイメージして読むことが想定された作品ならばラノベであり、3次元の人物をイメージして読むことが想定された作品なら一般小説である」というものです。……【定義②】

これだと世間の「マンガ・アニメ調のイラストレーションを多用していればライトノベルである」というのと全く同じと思われるかもしれませんが、物理的に漫画絵があるからラノベ、漫画絵がないから小説というのはどうも本質的でないと思うのです。たとえばドラゴンボールの作者が、登場人物の後日談エピソードを小説形式で出したとしましょう。その小説が純粋に文章のみから構成されていて絵が一枚も無かったとしても、我々は間違いなくドラゴンボールのあの絵柄で想像しながら読み進めますし、作者もそれを想定しているでしょう。世間の定義では一般小説になりますが、僕の定義①や②ではラノベということになりますし、現にこれはラノベでしょう。

すなわち、通常では世間の定義で間違ってないのですが、厳密には定義②で考えるべきであり、これらが実用的な尺度となります。そしてさらに実用性を無視して作品形式論の視点を突きつめるならば、定義①が正確である。これがラノベに対する僕の考え方です。

もちろん定義①も定義②も、判断が難しいという難点があります。自分が2次元をイメージしてるのか3次元をイメージしてるのかははっきりしない場合もあることは僕自身よく自覚します。が、理屈としてはこれらの定義が本質的だと考えています。しかしながら、何より大切なのは「分類などどうでもいい」ということです。ラノベかどうか議論する暇があったら、2次元と3次元の両方で想像して同じ作品を読んでみる、といった楽しみ方をするほうが、きっと有意義です。ラノベという概念が出てきてくれたおかげで、色んな小説作品に対して二重の楽しみ方が可能になったのは素晴らしいことだと言えるかもしれません。(実際は一度イメージが固まってしまうと二回目もそれで読んでしまうので、時間を空けないと難しいですが。)


■ 参考作品
・野村美月 『“文学少女”シリーズ』 ファミ通文庫 (2006-2011)


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