語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-08

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[2012-08-02]  表現の意義  

「想像はすべての芸術作品に勝る」とは、最近僕がもっとも強く感じていることだ。趣味で絵を描くことがあるが、そのときに改めて認識させられるのは、心の中に浮かんでいる情景を表現することの難しさである。

描く前は「こんな風景を描こう」「あんな雰囲気を出そう」といろいろ想像を膨らませるのに、いざ紙に描いてみると、想像していたものがまるで表せていない。これはもちろん、自分の技術不足というものが第一にある。けれどもそれを差し引いて尚、そこには芸術という表現行為が持つ宿命とでもいうべき性質が象徴されているように思うのだ。

確かに技術を磨けば磨くほど、思い描いた情景により近い絵が描けるようにはなっていくだろう。だが、たとえどれだけその表現力を高めようとも、想像した情景を100%の精度で再現することは、結局のところ不可能であろうと思うのだ。それは必ずしも芸術に限界がある、ということではない。むしろ人間の想像というものがそれほどまでに無限大の広がりを有しているということであり、故に芸術はその全てを表現できないという話なのである。

単純な数学モデルで言うならば、芸術をnとすれば、人間の想像力は例えばn^2である。nを大きくしていくとnもn^2も無限大となるが、どこまでいってもn<n^2 となる、という具合である。

もう一つ僕自身の体験から例をあげよう。僕の大きな趣味として物語作品の鑑賞があり、その一つにエロゲが挙げられる。エロゲには開始直後にオープニング(OP)ムービーというものがあり、そこでは登場人物や世界観の設定などがたいてい2分以内の動画で簡潔にまとめあげて紹介される。僕はこのOPムービーを見るのが好きなのである。OPムービーを見て「この作品はどんな話だろうか、今一瞬映ったあの絵はどういったシーンなのだろうか」と想像するのがこの上なく楽しい。時には「きっとこんな話なんじゃないか」などと、自分の頭の中で勝手にシナリオを組み立てたりもする。

そして、その自分で組み立てるシナリオは一つではない。「こんな話もありだな」「でもあんな話でもいいかもしれないな」などと、一つのOPムービーからいくつもの話を想像することができる。自分で勝手に想像しているだけなのだから、当然いくつ話を考えようが自由なのだ。だから、かえってその作品を終わらせてしまうことが「もったいない」と感じることが僕にはよくあるのだ。なぜなら作品を読み終えてしまったら、その作品の話は、その実際のたった一つに限られてしまうから。

もちろん自分が予想しなかった展開や結末に出会えることは一つの大きな喜びだ。OPムービーを見ていろんな話を想像したが、実際やってみると、自らの想像のいずれをも越える感動作だったというパターンは数知れずある。だが、どれほどの傑作であれ、作品を終わらせてしまうことによって想像の余地がなくなってしまう寂しさはある。たくさんあったはずの可能性が一つに収束してしまう残念さ、とでもいうのだろうか。

例えば、ケーキ屋に買い物に行ったときのことを考えてみてほしい。店先に並んであるいろんなケーキを眺めながら「これもおいしそうだな」「あれも食べたいな」などと、想像を膨らませる楽しさというものがいくぶんあると思う。けれど一つを選んで買ってしまった瞬間に、その買ったケーキしか食べられなくなる。もちろんそのケーキを実際に食べておいしければ嬉しいことではあるのだが、買う前のあの何とも言えない楽しみはもう味わえないわけである。それに近いかもしれない。

そういう理由から、僕は「良さそうだな」と思って購入しつつも、あえて手を付けていない小説、アニメ、エロゲがいくつかある。(もちろん物理的な忙しさから食指が伸びない面もあるのだが、それとはまた少し違った遠慮のような感情もあるということだ。)

もちろんいずれはやることになるのだろうが、これはこれで一つの楽しみ方だと自分は考えている。そこに山があったとして、その山に登ることだけが楽しみではない。遠く離れたところから山の景色を眺めるのも楽しみの一つだ。それが美しい山なら尚のこと、むしろ山の中に入ってしまえば山の姿は見ることができなくなる。

欲しいものがあれば手に入れたい。綺麗なものに近づきたい。そう思うのは人間の性であるにも関わらず、実際に手に入れたり近づきすぎたりするとその魅力が失われてしまうことが往々にしてある。不思議なことだが、これもまた真理だ。

自分の心に浮かんでいる情景に対する憧憬が大きければ大きいほど、それを何か形あるものとして表したい、残したい、と思うものだ。けれども実際に表現してみると、それは心に思い描いていた理想とはどこか違うものになってしまている。

何が違うのか。どうして完全に再現できないのか。だがこれは少し考えてみればごく簡単なことで、そもそも想像という形のないものに形を与えるのだから、その瞬間に内容が変質してしまうのはある意味当然であり、避けることはできない。すなわち心象世界と現実世界は一対一の関係にない、ということである。

似たような例が翻訳であろう。翻訳に100%はない、と言われる。ある言語で書かれた書物を別の言語に翻訳するとき、その内容を完全に再現することはできない。その書物の内容は、もとの言語の中で紡がれたものである限り、その言語と密接に結びついている。故にその純粋な内容のみを取り出すことは不可能であり、他の言語で表現しようとする際には必ず何らかの無理が生じる。なるほど、たとえば物語ならば話の筋や登場人物の行動およびセリフなどは、別の言語でも表現することはできるかもしれない。しかし物語の雰囲気、人物のセリフが与える印象やニュアンス、あるいは韻文ならばその韻律といった要素までをも完全に別の言語に移し替えることは、実に困難を極める作業であることは自明であろう。

同様に、自らの理想や想像といったものを完全に表現することはできない。想像の世界で紡がれたものを現実世界の形で表す際には必ず齟齬が生じるからである。想像はあやふやであるが、自由である。表現は、その想像を現実という枠組みで縛ってしまう行為に他ならない。想像は、それを表現した瞬間にその最大の魅力である自由さを失ってしまうのである。

「想像はすべての芸術作品に勝る」とはこういうことなのだ。上で述べた論に従って、この文をさらに自明な言葉に置き換えてみるならば、「理想は現実よりも美しい」という一言に帰着するのである。

さて、ではこの言葉が正しいとして、ある重大な疑問が生じる。それは「表現という行為に果たして意味があるのか」ということだ。美しい情景が心の中に浮かんだならば、想像のまま楽しめば良いのではないか。その魅力を欠く危険性を犯してまで、あえて表現する必要があるのか、と。

だが一つには、我々人間の誰もが多かれ少なかれ「表現したい」という願望を生まれながらに持っているという事実がある。必要があるかどうかを問う以前に、「したいんだからしかたないね」としか言いようがない面が確かにあるのだ。実際、自分も何となく絵を描きたいから描いているのであって、「この行為にはこんな意味があって・・・」などと小難しいことを考えているわけでは当然ない。

想像を想像のままで終わらせるというのは簡単なようだが、実は人間にとってわりと苦しいことなのである。ケーキ屋でいろんなケーキを眺めて想像を膨らませておきながら、そのまま何も買わずに帰るというのではやはり満たされないだろう。

では、なぜケーキを買わなければ気持ちが満たされないのかを考えてみよう。言うまでもなく、実際にケーキを買って食べなければそれを味わえないからである。空想の中でいくつケーキを食べようとも、それは文字通り「空しい」ことだと人は感じてしまう。人間はあくまで現実における充足を期待する生き物なのである。

いま、これを仮に“現実回帰願望”と呼ぶとしよう。すると、この願望を以て表現という行為を説明することも可能となる。人間は現実世界の中で生きている存在でありながら、時として現実ではないこと、現実に反することを、夢に見たり想像したりすることができる。だが、もちろん人間は想像の中だけでは生きられず、そこで現実回帰願望が働く。想像したものは、それだけではあやふやで消えてしまいかねない。だから、それを何とか現実的な形にとどめたい、現実に存在するものとして具現化したい。これこそが「表現」という行為の根本だと言えるのではないか。

こう考えると、表現というのは「想像」と「現実」の狭間にあるということが理解できるだろう。表現される場、そして表現された形は言うまでもなく現実のものである。しかし、有形のものだけでは絶対に表現は成り立たない。なぜなら表現する主体としての人間、もっと言えば人間の心の存在がその場に不可欠だからである。すなわち表現とは、心という無形のものと現実という有形のものの間で為される人間の最も本質的な営みの一つだと言えよう。

そして表現を通して生み出された作品は、理想と現実の境界、あるいはその二つの重なる部分に位置している。現実の形を持ったものでありながらも、そこに描かれているのは作者の心情、あるいは理想の風景であるという、とてつもない矛盾を孕んだ存在。しかしその矛盾を内包してなお作り上げられた作品には、そのアウフヘーベンを成し得るほどの力がこもっているのであって、時にそれは人の目を惹きつけてやまない至高の芸術となる。

その力は、作者が理想と現実の間で繰り返した葛藤の産物である。作品を鑑賞するとは、その力を肌で感じて作者の葛藤を読み取ることである。それは同時に、作者がいかなる現実を前に、いかなる理想を抱いてそれを表現しようとしたのかを知ることに他ならない。

そして、ここで再び根本的な問題とぶつかるわけである。先ほども述べたように、作品は作者の心象を完全に再現するものではない。故に、それを見た者が作者の意図を正確に読み取るとは限らない。

だが、この問題に対してここで芸術が出すべき答えはこうである。「それで構わない」と。100%の精度で伝えることが表現の目的ではない。むしろ、仮に完全な精度で再現できてしまったら、表現という行為の意義が逆にほとんど失われてしまうと考える。表現の意義とは何か。それはひとことで言うならば「知の発展」ではないかと僕は思う。

ある人(A)が何かを想像し、例えば絵を描いて表現したとしよう。それを見て、別の人(B)がその絵を見て、Aが心の中にどんな情景を描いていたかを読み取る。この過程がもし100%の精度で為されたとしたら、この一回のやりとりだけで全て完結してしまう。だが実際は、表現には齟齬が生じる。Bは、Aが思い描いていたのと微妙に違う情景を読み取る。仮にBがそれを気に入り、自分もまた絵でその感動を表現したとする。それをAが見ると、自分が思い浮かべていたのとは違った情景をBが想像していることを知るだろう。Aは、自分が浮かべる情景をどうすれば伝えられるか悩んで、他にもいろいろな絵を描く。それを見てBもまた同じように悩んで、絵を描いていく。重要なのは、そのやりとりの中でやがて新しい発見が生まれるかもしれない、ということなのである。AはBの絵を見て「こういうのもいいな」と思うこともあるだろうし、BはAの絵をきっかけに新しいインスピレーションを得ることもあるだろう。これは、100%の完結したやりとりの中では決して生じないことである。

(不完全ゆえの発展可能性というのは、生物進化の分野にも例を求めることができるのは言うまでもない。我々を含め生物がこれほどまでに多様に進化した一つの大きな理由は、異なる遺伝子の組み合わせによって子を為す交配というシステムである。親と子の遺伝子が全く同じならば、これほどまでの多様性は生まれなかった。)

表現という行為に100%はない。しかしそれ故に、人間が表現を通して何を得るかという点で、その意義は150%にも200%にも膨らんでいく可能性を含んでいるのである。上の例は単純にAとBと二人の間だけの話としたが、現実にはたくさんの人がいろんな表現の場を持っているわけであり、その可能性はさらに大きくなるだろう。

また逆に一人の場合でも、表現することによって想像や理解が深まることだってあるのだ。僕が普段、こうしてブログで作品の批評を書いている目的の一つはそれである。だいたいにおいて最初から綿密に組み立てられた構成があって、それを文章にしているのではなく、何となく文章に書いていく中で、感想が次々に頭の中に生まれてきて、物語に対する理解が深まるのである。似たような経験は誰もがどこかで味わったことがあることと思う。

そしてアニメや漫画、エロゲを含むいわゆるオタク文化もまた、現代日本において形成されている一つの巨大な表現の場であると言える。したがってこれもまた、理想と現実の間で繰り返される人間の本質的な試みに違いないということだ。 虚構の世界を楽しむことは、一見すると現実逃避のようではあるが、その根底には想像を形にしようとする“現実回帰願望”という、真逆のベクトルも内包されていることも意識するべきであろう。

もちろん作品世界の中の空想に溺れているだけではそのベクトルは発揮されない。我々が現実の中で生きていく限り、空想の魅力を現実世界に還元・反映していく試みが必要だろう。それは何も難しいことではない。自らが作品の作り手になるのは言うまでもなくその試みの一つであるが、そこまでいかなくとも作品の良さを誰かと語り合うのもまた立派な表現行為であるし、あるいは自分の中でその作品が一つの思い出として残るなら、現実生活の中で何かしらのきっかけとなっていくはずである。

その最たるものの一つが、アニメ作品のファンがよく行っている“聖地巡礼”だろう。昨今は大量のファンが押し寄せて現地の迷惑になっているという例もあり、当然ながらそういう非常識な事態は避けるべきであるが、聖地巡礼という行為そのものはとても文化的なものだと思う。本来ならば何でもないはずのその風景が、作品を見たことによって特別な意味を持ったものとして自分の目に映り、ある種の情感を生み出す。これは素晴らしいことだ。

それは聖地に限った話ではなく、たとえば道端に咲いているアジサイを見かけたときに、同じくアジサイの季節を描いた物語作品をふと思い出したとき、その人は虚構であるはずの作品を現実へと回帰し、感性の豊かさを一つ、新しく身につけたと言えるのである。

そもそも人間にとって真に美しいものとは、理想ではなく現実にこそ見出されるはずだ。ところが、そうかといって現実のみに目を向けていてもその美しさに気付くことはできない。現実の価値を知るには理想の存在が不可欠であるという逆説的な真理がそこにはある。理想のみに生きる者の心は空しいが、現実のみに生きる者の心は貧しい。現実の中で理想を描き、理想の中にあって現実を省みるという、その過程において生じる矛盾を深く見つめた上で、それを克服し昇華させるという弁証法的な営みにこそ、人間が最も本質的な美を見出す瞬間がある。

我々が虚構を通して得た経験や感動は、現実におけるそれと同様、時にはそれ以上に豊かなものとして、我々の実生活において心の糧となって生き続けるのである。


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