語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-08

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[2012-10-29]  選択肢を捨てた美少女ゲーム  

いわゆるゼロ年代(2000-2009)の美少女ゲーム史が他の年代と比べて最も特徴的である点は、同人ゲームが商業界に対しても多大な存在感を示したという点にあると言えるのではないだろうか。言うまでもなく、僕の念頭には『月姫』と『ひぐらしのなく頃に』という二つのタイトルが浮かび上がっている。いずれも美少女ゲームそのものの在り方に及ぼした影響は計り知れないものがあると僕は考えているが、ここでは特に『ひぐらしのなく頃に』という作品の意義について、一般の美少女ゲームが持つ「選択肢」システムと絡めながら、少し考えてみたい。

『ひぐらしのなく頃に』という作品の鍵は「昭和58年6月の雛見沢」に生じうる様々な可能性を複数の並行世界(パラレルワールド)として描くことで、プレイヤーに物語を多角的に捉えさせることにあるというのは自明のことだろう。しかし考えてみれば、このようないくつもの“ifの世界”を用意する手法は、実はそれほど珍しいものではない。

確かに小説、漫画、アニメ、映画などのメディアにおいては、通常は一本道のシナリオのみが描かれ、「こんな場合もありうる」といった本筋と矛盾するような話をあえて語ろうとする作品はまれであろう。だが、ある一つのメディアにおいてだけは、一本道のシナリオに縛られることなく、話が途中から様々に分岐していくことが容易に可能なのである。そのメディアとは、もちろん「美少女ゲーム」である。

もっと言えば、美少女ゲームを含めたいわゆる「シミュレーションゲーム」全体がこれに該当するだろう。すなわち、これらのゲームの中における選択肢の存在がその本質である。プレイヤーがどの選択肢を選ぶかによって別々のシナリオを用意することにより、本来なら矛盾極まりない話どうしを容易に展開することが可能となるのである。プレイヤーは各分岐を辿っていく中で、物語の全貌を段階的に把握していく。そして用意された複数のシナリオ全てを終えるとき、そこには一つの完成された物語に対する多重的な理解と、そして奥深い感動が芽生えるのだ。

これは、美少女ゲームあるいはエロゲーというものがこの世に生み出された当初においての選択肢の持つ意味とは、少し異なっているかもしれない。本来この選択肢というシステムは、「プレイヤーが傍観者ではなく、ゲーム内におけるシナリオに積極的に参加することができる」というゲームの特性を体現したものである。要は美少女ゲームの場合、プレイヤー自ら選択肢を選んで話を進めていくことにより、実際にゲーム内のキャラクターと恋愛を体験しているように感じるというメリットが想定されていたということだ。美少女ゲームにおける選択肢の意義は、もともとそこにあったに違いない。

しかし、美少女ゲームの市場が拡大し消費者の需要が高まるにつれ、シナリオの充実が次第に追及されるようになり、恋愛そのものを目的とするのではなく恋愛を通した主人公たちの出会い、ドラマ、感動を描く作品が多数生み出されるようになった。すなわち「恋愛」から「感動」へ、あるいは「エロ」から「泣き」へ 、という一つの流れがそこに形成されているのだ。

ところが、この流れの中で選択肢の持つ意味は次第に薄れていく。よく練られたシナリオや感動できる結末が求められ、恋愛という要素単体での重みが相対的に失われていくにつれ、「プレイヤー自身が話の展開に参加できるか否か」はもはやそれほど重要ではなくなってきていたのである。むしろ、話の途中に突如出現してプレイヤーの意思を問う選択肢という存在は、話の展開に没頭していたプレイヤー本人にとって「煩わしいもの」「邪魔なもの」と捉えられかねない。しかし、である。もし仮に選択肢をなくしてしまえば、一本道のシナリオをただ読み進めていくだけの作品になってしまい、それは小説とほとんど変わらない。ゲームとしての独自性を保つためには、選択肢の存在がどうしても必要だった。

このような状況から、「選択肢の無いゲーム」よりも、「選択肢を生かしたゲーム」が生み出されることになった。選択肢を生かすとは、前述したように、プレイヤーに複数のシナリオを読ませることによって物語を多重的に理解させ、それによって深い感動を与えるような作品である。こういった巧妙なシナリオが多数作り出されることで、美少女ゲームは、小説と同じように物語を読み進めていくものでありながらも、ゲームならではの特性を生かした魅力を備えるに至り、アニメや小説とは違う新たな情報媒体として独自の地位を確立することに成功したと言えるのである。

ここまでを踏まえると、『ひぐらしのなく頃に』というゲームが、選択肢の“無い”ゲームであることの重大さが見えてくる。そう、この作品には選択肢が存在しない。(厳密には一部にあっったが、ストーリー進行上の意味のある選択肢ではなかったはずだ。)全体としては、あらかじめ「~編」「~編」……と分けられたシナリオのそれぞれが既に「分岐した世界」なのであって、プレイヤー自身がifの世界を決定するような選択肢は作品中に存在しないのである。これが何を意味するか。

つまり『ひぐらしのなく頃に』は、美少女ゲームの形式から「分岐した世界観」という要素だけを取り出し、「プレイヤーの意思」というものの介入を完全に遮断したのである。そう。ゲームとしての独自性の柱となっていた要素である「プレイヤーの意思」を否定してしまったのである。これにより、『ひぐらしのなく頃に』は当然のごとく次の問いにかけられることとなる。

すなわち「それでは小説と変わらないのではないか?」という問いである。

だから、ひぐらしがゲームとしての独自性を保つためには「プレイヤーの意思」以外の要素が必要不可欠だった。だがそれは逆に言うと、ひぐらしは「小説とは違う」と言い張れるような他の要素を持っていたからこそ、選択肢というシステムを捨てることができたのだ。では、その要素とは何か。

いろいろ考えてみたが、その問いに対する答えは「音楽」ではないだろうか。文字だけで情報を伝え、他の情報としては挿絵が限界である小説と違って、ゲームでは文章にあわせて絵や背景だけでなくBGMも流すことができる。「文章と絵、そして音楽というゲームならではの組み合わせによって、どれほどのものが表現できるか」という可能性に、この作品は選択肢システムという盾を捨てて真正面から挑んだのである。

この挑戦には非常に大きな意味があった。すなわち『ひぐらしのなく頃に』はゲームの特徴である選択肢をなくすことで、アニメや漫画などの他のメディアにも比較的容易に広ることが可能であった。通常、選択肢によって話が分岐する美少女ゲームは、アニメ化・漫画化した場合には、シナリオ展開が比較的単調で軽薄なものになってしまい失敗する例が多い。しかし『ひぐらしのなく頃に』には選択肢がなく、そのかわりにあらかじめ分けられた編ごとに分岐した世界を描いているため、アニメや漫画においてもゲームと同様に「~編」「~編」と分けていけば、多重的なシナリオ構成を忠実に再現することができるのである。すなわち『ひぐらしのなく頃に』は、今までゲームに特有だった「分岐した世界観」がアニメや漫画でも表現できるという新たな可能性を提示するものであり、その意味でこの作品は、ゲームをアニメ・漫画など他のメディアに結びつける橋渡しとして非常に大きな貢献をしたのである。
 
結果として『ひぐらしのなく頃に』は様々なメディアで広がりを見せており、この状況だけを一見すると、むしろゲームとしての独自性が失われてしまったのではないかと誤解してしまいそうだが、それは間違いである。ひぐらしのゲーム、アニメ、漫画、小説などを読み比べてみればわかるだろう。ゲームにはゲームでしか表現できないものがあり、またアニメにもアニメでしか表現できない魅力がある。漫画や小説についてもまた然りだ。それはつまり、「ゲームは小説やアニメとは違う」ということの何にもまさる証明である。たとえ選択肢がなくとも、ゲームはその独自性を保てる要素を十分に持っている。「ひぐらしのなく頃に」は、文章と絵、そして音楽を組み合わせたいわゆる“サウンドノベル”形式としてのゲームに秘められた可能性を我々に見せつけてくれる作品なのである。

『ひぐらしのなく頃に』に関しては、ゼロ年代を代表する作品であるが故に、シナリオ内容については実に多くの場で分析が為されている。その中でも僕が最も重要だと考えるのは、上述の作品構造によって実現したifの世界の分岐が、ただ分かれたままではなく交通しあうことである。すなわち「罪滅し編」において主人公の前原圭一が、持ち得ないはずの別の世界の記憶をかすかに思い出し、収束する運命にあらがおうとするシーンだ。この瞬間、分岐する並行世界観はいわゆるループものとの重なりを見せ、「何度も世界をやり直しながらも、心の底に刻まれたかすかな記憶によって少しずつ何かが変わっていく」というシナリオパターンを生み出した。それは他の美少女ゲームに見られる分岐世界とは一線を画するものであり、そしてのちに2010年代初期の巨大コンテンツとして業界を席巻した『STEINS;GATE』『魔法少女まどか☆マギカ』において堂々と花開いたと言っても良いのではないかと僕は考える。

『ひぐらしのなく頃に』は物語内容に秘められたメッセージ性についても十分に考察の余地があるが、今回の文章ではあえて作品形式的な側面から論じてみた。こういったものは大抵は作品の本質には関わらないので不毛な議論になりがちだが、ひぐらしの場合はそれが密接に物語の魅力につながっていること、そしてこの作品が内容だけでなく形式においても美少女ゲームというものに大きな影響を与えたのだということを、今一度振り返ってみたかった次第である。


■ 参考作品
・『ひぐらしのなく頃に』 07th Expansion (2002-2006)


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