語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-08

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[2013-06-11]  現実を凝縮する芸術  

『秒速五センチメートル』や『言の葉の庭』などの自主制作映画で、今や多くのファンから人気を得ている新海誠氏だが、一方で、そんな彼もかつてはエロゲのOPムービーを手がけていたということを、ひょっとして知らない人もいるんじゃないかという気がする。

もちろん「そんなことも知らずに。これだからにわかファンは!」と上から目線で批判するわけでも、「昔から俺はちゃんと注目していたんだぜ!」と得意顔で自慢したいわけでもない。(まあその気持ちが全くないと言えば嘘になるが。)

しかし、新海誠作品の良さはどこにあるだろう? 「背景が、写真と見紛うほど繊細で綺麗なこと」だろうか? 「鋭い心理描写の中に、若者特有のみずみずしい感性が表現されていること」だろうか? どちらも正しい。しかし、新海誠の一番の魅力は次の点にあると思っている。

それは、「物語を切り取る」ことの巧みさだ。この一点において、彼は他の誰にも到達できないセンスを持っているように感じる。

物語を切り貼りすることなど、映像制作者なら皆やってることで、当たり前の作業だ。だが彼の作品を見ると、それがどれだけ重要な過程なのかを教えられる。つまりはたった数秒の映像で、何年もの物語を想起させることだって可能なのだ。登場人物たちが心に抱き続けている悩みや迷い、葛藤、そしてすれ違い。それら全てが、一瞬のシーンの中に奥行きとして存在し、見る者に何かを予感させる。

そしてこの新海氏の持ち味が最大限に発揮されるのは、一時間の映画よりはむしろ、たった数分間のオープニングムービーなのである。だからこそ新海誠ファンには是非、かつて彼が作っていたエロゲOPを知っていて欲しい。でなければ、あまりにもったいないように感じる。

彼が手がけたOPムービーの圧倒的な映像には当時、誰もが驚愕した。そして6年以上経った今、世の映像技術は格段に進歩したにもかかわらず、いまだにこれを超えるエロゲOPは出てきていないように思われる。

  ・『ef - the first tale.』 minori (2006)


映像のあまりに高いクオリティの影に隠れてしまいがちだが、この「悠久の翼」という歌もまた名曲である。特に、新海誠作品に毎回関わっている天門氏の音楽。彼の作る曲におけるヴァイオリンの響きはどこか心を震わせるが、この曲についても例に漏れず、心地よいメロディを奏でて、新海氏の映像を存分に印象づける。

ノーベル文学賞で有名な大江健三郎氏が、かつて著書『新しい文学のために』の中で、

「文学とは、現実を“異化”したものである。」

という趣旨のことを述べていて、なるほどと思ったことがある。そしてそれは、文学だけではなく芸術一般に言えることでもある。くわえて“異化”という言葉をさらに限定的に解釈するならば、

「芸術とは、現実を“凝縮”したものである。」

と言うことができるかもしれない。たった数分の映像と音楽で、一つの壮大な物語を切り取って凝縮したこの作品も、あくまで大衆向けの娯楽作品ではあるが、芸術が持つ本来の魅力とすばらしさを秘めているように感じる。


  *  *  *


“異化”の度合いというのは制作者のセンスによって変化するものだと思われるが、こと現代文学や現代芸術においてはどうもその度合いが高い傾向があるようだ。僕も現代美術の展覧会にときどき行くことがあり、もちろん深く感銘を受ける作品もあるのだが、正直言うと「何が何だかよくわからないがとりあえず圧倒される」というものが大半を占めている。

現実を異化するのはいいが、異化しすぎて何のこっちゃわからない状態になってしまうのも考えものではないかと思う。将棋にたとえるなら“誰も思いつかなかったような手”を指せたらそれは賞賛に値するが、だからといって“歩を前に三進める”などということをしてしまうと周囲は驚いて圧倒されはするだろうが、それは賞賛とはまた別種のものだろう。ルールを守った中でうまい手を差せた瞬間こそ「美しい」と感じるのである。

もちろん芸術というのは勝つためのゲームではないから、この将棋の例は極論だし、芸術においては“歩を前に三進める”という発想は十分アリである。だが、そういった型を破る行為にしか斬新さがないと考えてしまうのもまた偏狭だと思うのだ。将棋のルールを遵守しながらでも美しい一手が生み出せるのと同様、現実からの異化具合を低く抑えたままでも、美しい作品はつくれるはずである。

現代アートは、どうもルール破りの発想、異化を進める方向ばかりに焦点が当てられてしまっているように感じることが多い。その多様性は大切にするべきだが、美の進化の重点は、もう少し内側を向いた新しさの中にこそあるのではないかと思う。そういう意味では、上で僕が提案した“凝縮”という言葉のほうが本来の芸術の性質としては適切かもしれない。現実を別の姿に変えてしまうのではなく、あくまで原型は保ったまま、その良い部分や悪い部分を濃縮して一つの作品の中に再現する。少なくとも僕にとって芸術はそうあってほしいのである。

「もっと誰にでもわかりやすい小説や絵を描いてほしい」と言っているのではない。それではむしろ娯楽寄りの大衆文化となってしまうわけで、文学や芸術としての価値を磨くには、単に大衆受けするという以上の純粋な美の探究が必要であることは僕も理解している。科学者が大衆向けのわかりやすい講演ばかりしていても、(そういう講演も非常に大事なのだが、)それだけでは科学は何も進歩しないのと同じだ。やはり大衆には理解できないレベルの最先端の研究があってこそ、その分野は発展するのである。

だが、現代芸術においては「大衆には理解できない」ということの方向性がややズレてるのではないか、と感じる。科学で言えばイグノーベル賞方面にばかり精を出しているようなイメージだ。イグノーベル賞には非常に高度な研究もあるし、ユーモアや皮肉を取り込んで科学の幅を広げるという意義も大きい。しかし、それが科学そのものの中心になってしまったら駄目なのである。やはり芸術家には、イグノーベル賞だけではなくノーベル賞にあたるような作品もたくさん生み出してほしいのだ。ノーベル賞を受賞した科学研究の内容が一般人にはほとんど理解できないのと同様に、正統派の作品だからといって大衆向けの娯楽になってしまうわけではない。むしろイグノーベル賞的な在り方のほうが娯楽になってしまう向きは強く、美の探求という趣旨から外れてしまいかねないと僕は思う。

再び将棋の例に戻るなら、「ああ、この一手のすばらしさは将棋をやりこんだ人じゃないとわからないでしょうなぁ……」という、そういう一手を見せてほしいのである。唐突に歩を前に三進めるような「わからなさ」ではなく、そういった奥深い「わからなさ」を提示してほしい。ならばこそ我々鑑賞者側としても、その良さを理解するために感性を磨こうと思えるし、そして理解できた暁にはそこに知的な喜びが生まれるのである。これこそが芸術の「高尚さ」ではないだろうか。

抽象絵画やシュルレアリズムといった前衛的な現代芸術が発展したひとつのきっかけとして、よく写真の登場が挙げられる。要するに「今まで描いてたような絵が写真で簡単かつ正確に表現できるようになってしまったから、これからは写真では到底表せないような一風変わった絵を描こう」というものだ。もちろんそういう傾向が生まれること自体は、流れとしては十分納得できる。だが「今まで描いていたような絵」には本当に意味がなくなってしまったのだろうか。写真が発明される以前の、ルネサンス、バロック、ロココ、あるいは新古典主義といった時期の絵は、写真に取って代わられるような存在だろうか。僕はそうは思わない。それらの絵画には、写真では表せない魅力がすでに存在するではないか。もっと言うと写実主義時代の絵画ですら、写真とは異なる趣が十分にある。(無論、写真もまた写真にしか表せない趣を持っているのだが。)クールベの『オルナンの埋葬』、ミレーの『落穂拾い』は、写真ではなく絵だからこそあの情緒が出ているのだ。

つまり“写真のような絵”であっても、それは写真とは似て非なるものだ。このことは、新海誠氏のアニメ映画を見るにつけてもいっそう強く確信させられる。たとえば『言の葉の庭』の背景描写の細かさは凄まじく、ともすれば写真かと錯覚してしまうほどだ。だが本当に写真を使ってしまったら、あの作品の魅力は出せないに違いない。写真に似ていても、よくよく見ると光加減や陰影、彩色などに独特の采配がなされており、そこが人の心を惹きつけるのだ。アニメ映画という大衆文化においてでさえこういった“ルールを破らない中での絶妙な美”を表現できるなら、本格芸術でそれができない道理はないはずだ。型を破らず、しかし大衆には簡単に理解できないような高尚な次元の美が、きっと見出されるはずだと僕は思うのである。

……と、かなり好き放題に書いてしまった。僕自身はプロの芸術家ではないので、本格的な芸術に伴う困難さを何も知らずに書いている。つまり、無茶な理想論を提示しているのかもしれないことは自覚している。だがここに書いたことは、芸術鑑賞を趣味とする者の一人としての素朴な意見であるし、岡目八目という言葉もあるから、まったく考慮に値しない戯言というわけでもないと思っている。あと僕は前衛芸術そのものが嫌いなわけではなく、むしろ興味深いと感じることも多いのだが、芸術全体のありかたとしてそれがメインでいいのかという疑問について、今回書かせていただいた。

千年後の人類が芸術史を振り返ったとき、「20世紀までは素直な綺麗さがあったのに、20世紀以降はよくわからない絵ばかりになったなぁ」と思われてしまうのは忍びない。できれば「20世紀前後はちょっと変わった絵が多かったけど、その後はまた綺麗な絵で新しいスタイルを模索しているな。まあたまにはこういう時期があったというのも悪くない」といった流れになってほしいのである。


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