語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-10

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[2014-02-11]  変と不変の狭間にて  

「確かに、振り返ってみれば回り道に見えることもあるかもしれない。もっといい道があったかもしれない。だけど、それは回り道をした人間だけが気づけることなんだ。」


2007年の冬のコミックマーケットにて発売された同人ゲーム『ひまわり』は傑作として名高いが、僕にとっても様々なことを考えさせられる、実に良い作品だった。

エロゲに限らず、古今東西の物語作品の数々を見るとき、そこには人間の経験する悲しみや喜びの様々な形が描かれ、それを通じて多彩なテーマを私たちは読み取ることができる。

しかし、その多様性をさらに深く追究していったとき、そこに必ず見えてくる思想の潮流とでもいうべきものが二つある。人間の紡ぐあらゆる物語の根底にはそれら相反する二つの思想の間に生じる葛藤が存在し、人間にとってのいわば究極のテーマとして、すべての物語の原動力となっているのではないか……。自分は最近そう強く思うようになった。

その二つの思想とは「今与えられているものに満足して、それを守ることが人にとっての幸せなんだ」という思想と、「現状を破壊し、常に新しいものを求めていくことが人間のあるべき姿だ」という思想。もっと簡単に言うと、「変わらない」ことを望みますか、「変わる」ことを望みますか、という問いである。

変化を愛するか、それとも憎むか、というのは、日々を生きていく人間にとって常につきまとう命題でもある。もちろん、私たちが望もうが望むまいが、時間は一方向に流れ続ける。肉体は成長する。周囲の状況は流動する。私たちの精神はそれらに適応していかねばならない。生きていくためには、変化を拒むことは不可能だ。「変わる」という事象は、「生きる」という事象の必要条件である。変わらなければ、この世の何者も生きていくことはできない。生物の進化とは自然淘汰であるとするダーウィンの説は有名だが、それこそまさに生物というものの本質、生きとし生けるものに課された変転の宿命が、マクロな規模で展開されている例と言えるだろう。

しかし、生物の本質を論じるならば、もう一点見逃してはならない特質がある。それは生物体の持つ「恒常性(ホメオタシス)」である。量子力学の公式にその名を残すシュレディンガー博士が、著書『生命とは何か』において生物について以下のようなことを述べている。この宇宙の物理現象はエントロピーが増大する方向に進む……つまり万物は拡散し崩壊の道を歩む。しかし生命現象は、不思議なことにそれとは逆の方向性を持っている。物質を集積し、生命体を維持しようとする何らかの「力」が働いているかのようだ、と。生物には周囲の状況の変化から自分を守り、生体内部を一定に保とうとする機構がある。つまり「変わらない」ことが生物が生物たる所以だとも言えるのである。

生物が逆説的な存在であるとまでは言わない。しかし、「変わる」ことと「変わらない」ことの両方を本質に持ってしまった時点で、そのあり方は非常に不安定だということは認めなければならない。

……変わらなければ滅びてしまう。しかし、変わりすぎれば壊れてしまう……

そして、それは精神のあり方についても同様である。現状に満足していては成長はない。しかし、進歩することばかりを目指して見失ってしまうものもある。文明が発展した現代社会の裏には、常に何かを置き去りにしてしまった喪失感がつきまとう。「幸せな今のままでずっといたい」と思う気持ちと、「前に進んで新しい風景を見たい」と思う気持ち。どちらも、人間なら誰もが抱く感情だ。そして、正解は一方のみという単純な問題では決してない。それは人が人であるかぎり解き続けなければならない矛盾だと言える。

変わらないものを守りつつ、それでもどこかが変わっていく。同じような毎日を繰り返しながら、少しずつ前に進んでいく。円の中をぐるぐる回るのでもなく、まっすぐな直線上を突っ走るのでもない。円を描きながら、それでもどこかを目指す。私たちの細胞内にあるDNAと同じ、螺旋の道のりの上に私たちはいる。

それは、たしかに「遠回り」な道のりに見える。もっと効率よく生きられないのかと誰もが悩む。けれども合理的になりきれないところにこそ、人間の豊かさは育まれる。

同人エロゲ『ひまわり』がどうしてあそこまで高い評価を受けたのか、その理由は、そんな「人間の豊かさ」とは何かを考えさせる作品だったからだと、自分は感じている。

子どもの頃から宇宙を目指し、ついには宇宙飛行士となって人類が到達したことのない場所に至った雨宮大吾。そしてそれを支え、宇宙事業の最先端を担った西園寺明。雨宮大吾はある事故によって死んでしまうのだが、彼らは常に「上を目指す」人間だった。

しかし西園寺明が宇宙でさらなる事業を進めている一方で、地上では雨宮大吾の息子である雨宮銀河が、主人公とともに平和な学園生活を送っていた。彼らは宇宙部に所属し、宇宙に対するあこがれはあるものの、それは日常の範疇にとどまるものだった。

宇宙へと飛び立ち、命を落としてしまった雨宮大吾。そんな父親に対して漠然とした反抗心を抱き、地上で日常を過ごす銀河。奔放で無茶好きな性格は似ていながらも、根本的な考え方の異なるこの親子の対比構造は冒頭に述べた二つの思想そのものの象徴であり、それは「宇宙」と「地上」というそれぞれのバックグラウンドによっても引き立たされている。

そして、そんな「宇宙」と「地上」に一つの接点が生じるところから物語は始まる。「ある晩、主人公のもとに空から女の子が降ってくる」という、陳腐すぎて逆にあまり例を見ないようなエロゲ展開を、見事に利用した。最初は本当にただの「ロリっ娘宇宙人同棲ADV」にしか見えないのだが、実は作者が綿密に用意していたすべての歯車が、この出会いによって動き出す。

主人公が失った記憶。雨宮大吾の死の真相。現在と過去が幾度も交錯する中で描かれるのは、ひたすら宇宙を目指した人間と、地上での幸せを求めた人間とのすれ違いである。そして彼らが犯した過ちと後悔は、やがて二つの思想の止揚へとシフトしていく。

この作品の素晴らしい点は、人物達のそういった価値観の変遷を、極めて丁寧に描ききっていることにあると思う。物語を振り返ったとき、印象的なシーン、重要なシーンというのはいくつかあるが、「ここで劇的に何かが変わった」というような決定打や、あるいは「ここに物語テーマの全てが象徴されている」というような見せ場など、いわゆる明確なクライマックスポイントが無いというのが、この作品の特徴である。

にも関わらず、この作品が多くの人の心を惹きつけたのは、ひとえにその「丁寧さ」であると自分は考える。それは単純に文章表現が繊細だとか、作り込みが丁寧だとかそういう意味ではなく、ある一つの思想が、別の一つの思想に触れたときに生じる動揺や戸惑い、そしてそれらが新しい次元へと至るまでの成長の過程をしっかりと描いているということだ。

それは作者自身の、この『ひまわり』という作品に対する真摯さを表すものでもある。わかりやすいテーマや感動シーンを売るのではない、ただ自分の描きたいものを描くんだ、というこだわり。商業ではなく同人創作だからこそ許される姿勢ではあるが、彼はその同人というスタイルに誇りを持っている。

それゆえに、そこには他ならぬ作者自身の哲学が色濃くにじみ出る。おそらく彼自身が普段の生活で感じている、変化というものへの憧れと憎悪、あるいは相反するそれらの間で日常的に繰り返される葛藤という、人間にとってもっとも身近な、けれども根本的な矛盾を、目の前の物語にありのままにぶつけている。そしてただぶつけるのではなく、綿密なストーリー設定と伏線を用意し、全体として独特の広がりを持った物語が完成されている。

この作品の最大の魅力を与えているのは、その広がりである。私たち人類にとって永遠のロマンである宇宙を背景とすることで、進歩というものに対する憧れと不安、その両面を非常に印象的に演出した。

青空を越えて、遠くへ飛び立った宇宙ステーション「ひまわり」と、地面にしっかりと根を下ろして一面の花を咲かせる「ひまわり」。その二つが交差するところに、この『ひまわり』という作品は描かれる。


■ 参考作品・文献
・『ひまわり hi・ma・wa・ri』 ぶらんくのーと (2007)
・Erwin Schroedinger著、岡小天訳 『生命とは何か ―物理的にみた生細胞』 岩波文庫 (2008)



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