最果てのイマ

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密度と言ってもいろいろあるが、“知的密度”が高いエロゲと言えば、やはり2005年にXuseが世に放った『最果てのイマ』が真っ先に挙がるのではないかと思う。シナリオライターは田中ロミオだ。よくもまあこれほど凄まじい作品を作ったものだと感嘆せざるを得ない。

ネットでは彼独特の文章の調子を「ロミオ節」と呼ぶことが多いが、ロミオ節がもっとも凝縮されているのがこの『最果てのイマ』ではないだろうか。少なくとあらゆる田中ロミオ作品の中で随一の難解さを誇っており、読み応えという点において、この作品を上回るものはエロゲ全体で見てももそうそう名前が挙がらないだろう。

田中ロミオと言えば『CROSS†CHANNEL』というのが世間一般の認識である(といってもかなり限られた世間ではある)が、『最果てのイマ』はさらに輪を掛けて通向けなところがある。日本酒に例えるならば『CROSS†CHANNEL』は清酒で、『最果てのイマ』はにごり酒といったところだろう。にごり酒は清酒より栄養価も高く、濃厚な味わいが楽しめる。ただ、もちろん一周回ってやっぱり清酒が王道だねというような点が『CROSS†CHANNEL』にもある。酒好きが皆にごり酒を好むとは限らないのと同じで、ロミオの玄人ファンの中でも両作品の間で好みは分かれるのではないかと思う。
ただ、田中ロミオが担当したエロゲ作品としては2011年にKeyから出た『Rewrite』があり、この中の「Moon」と呼ばれる章については、芸術性というべきパラメータの瞬間最大風速が『最果てのイマ』すら上回っていたと僕は感じている。あの章には、田中ロミオが綴った文の中で最も美しいと言えるものが詰まっていたように思う。だが逆に言うと『最果てのイマ』は、『Rewrite』が一瞬だけ到達したその頂点よりやや下のレベルを、物語の全体にわたって維持したような作品であり、むちろそのほうが驚異的であるようにも感じる。また作品の“情緒”という点では2004年の『神樹の館』がロミオ作品の中では至高であるが、『最果てのイマ』はあの幽玄の雰囲気とはまた別種のものでありつつも、精神の極致のような世界観における独特の情緒を保った作品だと言えるだろう。

さて他作品との比較はこれくらいにしておき、シナリオ内容そのものについて考えておきたい。

先ほども述べたように『最果てのイマ』はまさしくにごり酒であり、はっきり言って読みづらいし、ギャグまでもがニッチすぎて素直に笑えない。(面白いと思っても笑顔には至らず、真顔でハハハ……と声を出す感じである。)専門用語や造語も大量に出てくるし、文章量も膨大で、下手をすれば同じ世界を何度も繰り返す。しかしながら、その先に辿り着いた結末の「最果て」感は、やはり素晴らしい芸術性に満ちあふれていたと言えるだろう。

―――彼らはいつも七人だった。
わずかな時さえ惜しみ、町外れの廃工場に集った。
忘れ去られ、錆と砂埃を胎に積もらせた直方体。
殺風景でありながらどこか情趣さえ漂うのは、かつて満ちていた
人の息吹が乾燥し、空間に薄く哀愁を添えているせいだ。
過去の栄華に思いを馳せるように……見る者の胸を、打つこともある。
若者たちは、しかし異なった所感を抱く。
忘却された世界を、所有者なき領土と受け止める。
老いたものを、若者が受け継ぐ。
世界が連綿と繰り返してきた摂理をなぞり、彼らはたまり場を得た。
家庭でも世間でもない安息の場所。
誰かが《聖域》と呼んだ場所。
……世界は偽りと裏切りで満ちている。
人と人は傷つけ合う。どんなに親密でも衝突は避けられない。
しかし。
たとえ接触が傷つけあいだとしても、それは相手が実在することの証拠となる。
だからこそ生身の絆はかけがえのないものとなるのだということを……
千々に撒かれたパズルのピース。
どうか、優しく配列されますように―――


OPムービーの最初に流れる文章であるが、この時点ですでにロミオ節が炸裂している。特に最後の「どうか、優しく配列されますように―――」は、少なくとも僕の中では格段に印象的な一文である。

シナリオは前半の「聖域編」と後半の「戦争編」に大きく分けられる。無論どちらも重要な要素が散りばめられているわけだが、前半は伏線としての役割が大きく、考察の目玉となるのはやはり後編だろう。

後編においては人類と敵との戦いが描かれる。この「敵」とは人間の精神を欠落させ、心のない怪物に変えてしまうものである。しかしこの敵の正体がつまり何であるのか、それが具体的に描写されないのがこの作品の特徴であり、また理解しにくさの一つの原因とも言えよう。

しかしこの「敵」と戦う中で、主人公はその本質について直観を得たことを示唆している部分があり、これが考察のヒントとなる。

こいつは僕達の意識の塊だと。
いわゆる上位意識、超自我という存在なのだと。


精神分析学における「超自我」とは、「自我」「エス」とともに自己の精神を構成するものとしてフロイトが提唱した概念である。それは道徳規範の内面化としばしば表現され、自我やエスを監視あるいは制御する役割をもつとされる。有り体に言えば“良心”ということになるが、我々の心を形成するこの良心が肥大化して人類の敵になるという奇抜さが、この作品の妙である。

だがそれは奇抜ではあるものの、実は人間にとってきわめて本質的な話を内包している。「超自我」という名前の通り、それは自我を凌駕してしまう可能性を秘めている。しかも超自我は自我やエスと比べて、他者との関わりの中で磨かれていくという側面が強く、要するに外部とのネットワーク的な性質を多分に有している。したがって、これがもし人類規模で疎通し全体化あるいは普遍化されたとしたら、それは人間の個体にとっての巨大な敵となりうるという発想が生まれるのもたしかに頷ける。

そして超自我の持つ全体化的な要素に注目すると、作品のテーマが次第にわかりやすくなっていく。すなわち超自我を人類「全体」の象徴と考えてみたとき、この作品には「全」vs「個」(あるいは「共通規格」vs「個性」)という対立関係が存在していることになるのである。

これは田中ロミオが過去作品を通して追究し続けてきた【他者vs自己】というテーマの発展形であると同時に、【「0」vs「1」】という、この宇宙で最も基本的な対概念をも示唆していると自分は考える。なぜなら「個」とは言うまでもなく「1」であり、また「全」は無限の拡散を表すがために、それは結局「0(無)」であるからだ。この思想は、「(全てを)持っているということは、結局何も持っていないということと一緒なんだ」という主人公の台詞にも見ることができる。

したがって、この作品は情報媒体の発達、つまり「ネット」が肥大化した社会において、人どうしの意思統合の先に垣間見えた人類のゴールとでもいうべきものを具現化するが、それこそが他ならぬ人類最大の「敵」を生んだ、もしくは「敵」そのものであるという認識に立っている。つまり端的に言うならば、長い歴史の先にとうとう見えてきた「完結した全(善)なる世界=無の世界」を土壇場になって敵視し、「個の意思が存在する世界」を、人が目指しなおす物語だ、ということになる。

個の意思は、ときに全体の倫理から離反する。しかしそのあり方こそが、人類にとっての勝利である。あらゆる個が、全体を生かすための論理の上でしか働けなくなったとき、そこに人間らしさは残らない。それは人間ではなく、人間のように生きている、ただの機械でしかなくなる。それは完成した世界だが、同時に個の敗北であり、「無」なのだ。

だからこそ王は最後に「倫理」を破った。あるいは、倫理を越えた。そしてその行為ゆえに、多大な犠牲と引き替えに人類を「勝利」へ導いた。だが全体を統べる存在である王が、全体の倫理を破ることは自己矛盾である。ゆえに、最後の決断をしたのは「王」ではなく、「忍」という一人の人間の意思だったと考えるほうがいい。そしてそれは、あらゆる人間の意思を支配するものではなく、それらを純粋に代表するものだった。つまりこの瞬間、全体主義は壊れ、民主主義となっている。そしてあらゆる人間が持つ個の意思とは、「生きたい」という願望、もっと言えば「明日に進みたい」という一つの確固とした方向性である。その「未来」を目指すベクトルの起点は、他ならぬ「今」だ。だから、最後に「イマ」が忍に力を与えたのだと思われる。

過去にとどまろうとする者にとってイマは終点だが、未来に進もうとする者にとってそれは始点となる。しかしイマは、限りなく幻想に近い存在だ。今を今だと捉えた瞬間に、それは過去となっている。しかし過去と未来の狭間にイマを見出すことによって、人は0から1へと進むことができる。まさに人間精神の最果てを、理知的かつ芸術的に描ききったと言えるだろう。

だがやはり注目するべきは、そのシナリオ構造、あるいは配置の巧みさだろうか。何度も繰り返した最初の章「お茶会-0」から膨大な時間を経て、ラストにまた同じような章に戻ってきたときのタイトルが「お茶会-1」だった時の、あの充足感は筆舌に尽くしがたい。あれを味わうための物語だったと言っても過言ではあるまい。

  *  *  *

この作品を超自我に立ち向かう自己精神の物語と捉えるとき、それは規範を超えようとする欲望を描いた物語でもあり、“綺麗”になりすぎるあまり自己を否定してしまいがちな現代社会の傾向に対する強烈なアンチテーゼとも見ることができる。そしてこの姿勢は、2011年の『Rewrite』においてさらに研ぎ澄まされ、人類の繁栄と生の圧倒的肯定という壮大な主題が描かれるのであるが、それについてはまた別の機会に触れることとしたい。


■ 参考作品
・『最果てのイマ』 Xuse (2005)


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