語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-05

« 12345678910111213141516171819202122232425262728293031»

[--------]  スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


[2015-08-21]  アニメ作品に見るニーチェの思想  

19世紀末のドイツにおける代表的な哲学者フリードリヒ=ニーチェの思想は、当時の西洋哲学界に対して大きな衝撃をもたらしただけではなく、20世紀以後のいわゆる現代哲学の各潮流にとっても無視することのできない、重大な指摘を内包するものとしての存在感を示していました。そして21世紀を生きる我々現代人にとってもそれは同様であり、また哲学の世界だけではなく、様々な物語作品の中にその思想の残滓を読み取ることができる例というのも、今ではいくつか存在します。

今回は日本のとあるアニメ作品について、それを考えてみたいと思います。

さて、その前にニーチェの思想とは何だったかを整理しておくと、一言で表すならば「神は死んだ」でした。もう少し詳しく言うならば、「あの世基準ではなくこの世基準で物事を考えろ」ということです。そしてさらに正確に言うならば、たとえこの世基準であっても他人に言われるままではダメで、自分で自分の生き方をしっかり考えなくてはならない。そして「こう生きよう」と思った道を見つけたならば、何としてもその道を進んでいけ、という力強いメッセージを含んだ哲学でした。

要するに「自分の価値観を他人にゆだねるな。自分で決めて、自分でそれを実践しろ。」という、自己本位の考え方を提示したわけです。

そんなの当たり前の事ではないかと思うかもしれませんが、これは実はとても難しいことです。なぜなら一見自立した思考ができている人間も、いろいろな場面で思考停止し、他人やあの世まかせにしている部分があるからです。たとえば都会で一人暮らしができている人間も、もし無人島に漂着したときに生きのびられるかどうかは疑問でしょう。精神面についても同様のことが言えるわけです。ニーチェの掲げる自己本位思想は、まさしく無人島で一人で生きのびるほどの厳しさを伴います。すべての価値観を自分で一から組み上げ、そして他者からの何の保証もないままにその道を選び取るというのは、よほどの精神力がなければ不可能でしょう。

それはアニメ内のキャラクターにおいても同様で、たしかに自分なりの考えを持って生きている主人公はたくさん見受けられます。しかし、ニーチェが主張したレベルに届くほどにそれを突きつめ、五里霧中の闇の中でどこまでも自分を肯定し、道がないところに己の道を切り拓いたというような作品は、どれほどあるでしょうか。

僕が知る中で、そんなアニメ作品が一つだけあります。

どこまでも熱く、どこまでも己を貫き、人類の未来を、ひいては生命そのものの未来さえも切り拓いた物語がありました。知っている人はもうおわかりでしょう。2007年に放映されていた傑作中の傑作、『天元突破グレンラガン』です。

主人公のシモンは、最初は自分に自信がなく、得意なことと言えばせいぜいドリルで穴を掘ることだけという、内気な少年でした。しかしそんな彼の心の支えとなるのが、兄貴分のカミナという青年です。カミナは「無理を通せば道理が引っ込む」という思想の持ち主で、どんな困難な状況でも精神と根性で何とかしてしまう強い人間であり、自分に自信が持てないシモンからすれば尊敬と憧れの的でした。

そんなときに村が敵に襲われ、人々が混乱に陥る中、シモンは村の地中に埋まっていた戦闘ロボットを発見します。それはドリルを武器とするロボットでした。しかしシモンには敵と戦う勇気など到底ありません。にもかかわらず隣にいたカミナは、シモンに操縦させようとします。彼は、気が弱いながらもいつも地道にドリルで穴を掘り進めていたシモンこそが相応しいと考えたのです。それでもどうしても尻込みしてしまうシモンに、カミナはこう言います。

「自分を信じるな! 俺を信じろ! おまえを信じる俺を信じろ!!」


こうして、シモンの戦いの物語が幕を開けます。カミナやヨーコといった仲間たちとともに、彼は敵の襲来から人類を守る旅を始め、そしてその中で少しずつ戦闘にも慣れて成長していきます。ピンチになってくじけそうなときは、いつもカミナがシモンを励まして、その鼓舞した魂のエネルギーによって事態を打開していくのです。

しかしながら敵も強大であり、物語中盤になると精神論だけではどうにもならない場面が出てきます。そしてとうとうカミナに絶体絶命の危機が訪れます。カミナはこの戦いで自分が死ぬことを悟り、シモンにこう言うのです。

「いいか、忘れんな。
 おまえを信じろ。
 俺が信じるおまえでもない。
 おまえが信じる俺でもない。
 おまえが信じるおまえを信じろ!!」


こうして皆を守った代償に、カミナはその命を散らせるのです。シモンは自らを常に支えてくれていた彼を失った悲しみで廃人のようになり、戦うことができなくなってしまいます。カミナなき今、仲間たちを引っ張っていくカミナのような存在が必要なのに、自分はとてもカミナのようになれない。しかしある出会いをきっかけに少しずつ自信を取り戻していき、やがて彼は自らの道を見出し、その決意を高らかに叫びます。

「兄貴は死んだ、もういない。
 だけど俺の背中に、この胸に、1つになって生き続ける!
 穴を掘るなら天を突く。墓穴掘っても掘り抜けて、突き抜けたなら俺の勝ち。
 俺を誰だと思っている。俺はカミナの兄貴じゃない。
 俺は俺だ。穴掘りシモンだ!!」


ここでシモンは物語の真の主人公として覚醒し、圧倒的な自己肯定感を身につけます。そしてその天を突くドリルで己の道を突き進んでいく怒濤の展開こそが、『グレンラガン』の真骨頂です。

しかしここまでの展開が、まさしくニーチェの思想に至る道筋そのものであることにお気づきでしょうか。最初のカミナの台詞、「おまえを信じる俺を信じろ!!」は、ある意味で“宗教”なのです。自分の生き方を自分のみでは正当化できないから、神にそれをゆだねる。神がこの生き方を正しいと言ってくれているから正しいのだ、という姿勢です。この姿勢でも、人間はそれなりに強く生きられます。序盤のシモンのように。

しかし、「神は死んだ」ように、「カミナも死んだ」のです。

自分を肯定してくれる根拠そのものが消えてしまったとき、人は暗闇の中に放り込まれ、身動きが取れなくなってしまいます。これは宗教を信じられなくなってしまった現代人の姿であり、そしてカミナの死後に戦えなくなってしまったシモンの姿でもあります。そんなときに人間の足を一歩前へ進ませるものがあるとすれば、それは何か。

それを伝えたかったからこそ、カミナは死の間際にシモンにこう言い残したのです。「おまえが信じるおまえを信じろ!!」と。これです。これこそがニーチェの哲学をもっとも体現した台詞です。他の誰が保証してくれなくても、自分が信じるから自分を信じるのだという、何の論理的な意味をも持たない「気概」。しかしだからこそ、虚無の暗闇に光を生み出すパワーたり得る。それは無機質の宇宙に生まれた生命の原初的宿命すら予感させるものです。

『グレンラガン』の面白い点は、“ドリル”というモチーフを最大限に生かしているところです。

「俺たちは、一分前の俺たちより進化する。
 一回転すればほんの少しだけ前に進む、
 それがドリルなんだよ!!」


それは単なるロボットの武器ではなく、シモンが唯一得意とする穴掘りが「前に進む」という行為の象徴であるという意味がまずあって、さらにはドリルに刻まれている“らせん”をDNAの二重らせん構造にも結びつけ、生命力のことを「らせん力」と表現したり、さらには人類を含めた通常の生命を「らせんの民」と呼称します。対する敵は、そのらせんの運命を捨てた存在、「アンチスパイラル」です。変化し続ける不完全な在り方を捨て、不変かつ完全な者となった彼らに、らせんの民である人類が立ち向かっていく物語です。

僕は最初、これを「ウイルス vs 生物」になぞらえた物語だと解釈していました。円環の閉じたDNAを持つウイルスと、らせんDNAを持つことで多様な進化を遂げる生物との戦いだと思ったのです。実際にアンチスパイラルが使役するロボットは、ウイルスに似た無機的な形状になっており、制作者側も意識しているのだと思います。しかしこうして考えてみると、アンチスパイラルは神や宗教の象徴とも解釈できるわけです。むしろこちらの意味合いのほうが強いでしょう。変化や欲望を否定して永遠の“静”の世界を築き上げようとする彼らに対して、シモンはこう言い放ちます。

「俺たちが掴もうとしている明日は、てめえが決める明日じゃねえ!
 俺たちが、俺たち自身が無限の宇宙から選び出した、俺たちの明日だ!」


この言葉は、ニーチェが神に対して言い放った決別宣言と完全に一致するものではないでしょうか。

ただ、この「完全なる神」に対する「不完全な人間」という対比自体は、実はアニメ作品においてはそれほど珍しいものではありません。特にバトル系の作品においては、敵はたいてい圧倒的な強さを持つ存在であり、それに対して主人公が成長しながら立ち向かっていくというのが典型的なスタイルなので、最終決戦までいくとそれが高じて“神にあらがう人間”という構図となり、不完全ではあるがそれゆえに前に進むことのできる人間のすばらしさを描くヒューマニズム的価値観は、見方によってはかなり多くの作品に備わっていると捉えることができると思います。

『グレンラガン』がそれらの作品と一線を画する点は、やはり「カミナの死」を描いてみせたことだと思います。単に完全無欠の敵側だけに神を仮託するのではなく、味方として主人公を励まし、導き続けてくれたカミナもまた、主人公にとって心の支えという意味での「神」であったわけです。しかしそんなカミナの死に直面することで、主人公はその“信仰”からの卒業を余儀なくされます。そこで倒れることなく、自分の頭で考え、自分の道をどこまでも信じぬく究極的な覚悟を手に入れたのが主人公シモンの強さの源です。カミナという「神」への依存を克服できた彼だからこそ、アンチスパイラルという完全無欠の「神」にも屈することなく立ち向かうことが出来たのではないでしょうか。

しかし興味深いのが、シモンはカミナの死を乗り越えて圧倒的な精神力を獲得したあとも、カミナのことを決して忘れなかったという点です。身も心もたくましくなったシモンが、それでもなお歯が立たずに諦めてしまいそうな状況が終盤で訪れますが、そんなとき彼の背中を最後に押してくれるのはやはり、回想の中のカミナの言葉なのです。神や信仰といった曖昧なものを排して、現実的で独立した精神をもつ力強い人間になることをニーチェは説きましたが、それでも人間にはどこまでも捨てきれない“弱さ”がある。その弱さを、『グレンラガン』という作品は否定せず、それもまた人間のもつ武器であることを描いたわけです。

「神 vs 人間」という構図を単純に「敵 vs 味方」に当てはめるのではなく、味方の中にもその対比を生みだし、その二重性をもって主人公の成長物語としての奥行きを際立たせるとともに、本来は地面を掘るはずのドリルで天を突くという意外性満点のダイナミズムを作品の主題として掲げ、ドリルのらせん模様を生命の象徴たるDNA、そして「少しずつでも前に進む」という性質に重ね合わせることで、生物の進化が有する可能性、そして人間のもつ無限の意志力の描写へとつなげ、ニーチェの提唱する生の哲学を体現してみせた。しかしながら最後の最後にはニーチェ哲学に徹しきれない人間の弱さをも表現し、それを捨てるのではなく、むしろその弱さをも含めて人間の在り方として全てを肯定してみせた先の勝利を描くという、凄まじいスケールの人間賛歌であった。そのように確信しています。


■ 参考作品
・『天元突破グレンラガン』 GAINAX (2007)


前の記事≪   | ホーム |   ≫次の記事

[ コメント ]

[ コメントの投稿 ]


 

 プロフィール

柾葉 進  (まさば すすむ)

 ブログ内容

哲学、歴史、文学、評論等。アニメやエロゲ(美少女ゲーム)を切り口にして論じたものが多数あります。

 ブログ案内

 全記事リスト

全ての記事の一覧

 ブログ内検索

 連絡先

pantheratora2369
☆zoho.com
(☆を@に変えて下さい)

 カテゴリ

 年別アーカイブ

 新刊情報

 
● 「私たちが選挙に行く意味は本当にあるのだろうか?」

 刊行書籍

 
● 「『永遠の0』と『魔法少女まどか☆マギカ』の類似点に関する考察」(2015年)
 
● 「美少女ゲーム作品にみるニーチェの思想」(2015年)

 RSSリンク

 

FC2Ad



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。