語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2019-10

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[2017-05-30]  美少女ゲーム作品に見るニーチェの思想  

【本記事は、2015年8月に刊行した同タイトル書籍の全文となります。発刊から一定期間が経過したため掲載致します。新刊案内時の記事はこちらです。】

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(1)はじめに

僕は今でこそ小説、アニメ、ゲーム等々が大好きですが、小学生の頃は物語作品というものにあまり興味が持てず、読書もどちらかというと嫌いなほうでした。それでも一つだけ好きな本のジャンルがあって、それは世界中の偉人について書かれた伝記でした。なかでも特に僕の心を引いたのは「エジソン」や「ライト兄弟」などの発明家と呼ばれる人たちのエピソードで、何度も読み返しては、家の戸棚にあった工具類を引っ張り出してきて自分でも何か新しいものを作ろうと励んでいた記憶があります。(もちろん全部ガラクタにしかなりませんでしたが。)

一方で、逆にまったく魅力を感じなかった伝記もあり、それは「ヘレン=ケラー」や「マザー=テレサ」などの、いわば“他者に救いの手をさしのべた”という点が評価されているような偉人の話でした。もちろんそういった人物に対して尊敬心をまったく抱かなかったわけではありませんが、まだ子どもだった僕は「他人のために生きるということが偉い」という感覚が今ひとつピンと来ませんでした。当時の僕はこう考えていました。「他人のために生きた人は、『他人のために生きたい』という自分の願いに従って生きたのだから、結局それは自分勝手に生きたということになるのではないか」と。どれほど世のため人のために尽くし、聖人と呼ばれるような人でも、結局は自己満足のために生きたのだから、それをことさらに「偉い」と褒めるのは何か違うのではないか、という疑問を抱いていたわけです。しかしながらそれを周囲に言えば「屁理屈だ」と一蹴されることも子供心に予想できたので、僕は「ともかくこういう利他的な行いをした人が社会的には尊敬される、そういうものなのだ」と自分に言い聞かせ、漠然としたモヤモヤ感は心の奥底に押し込めて、いつしか忘れ去っていました。

しかし長年封じ込めていたその疑問を思い出させてくれた美少女ゲーム作品があり、それこそが2011年にKeyから発売された『Rewrite』でした。(いつものごとくエロゲと言いたいのですが、この作品にはエロ要素はなくて全年齢対象なので、正確を期すために美少女ゲームと表記します。)その直接のきっかけになったのは、作中で主人公が述べるこの台詞でした。


「俺は人を助ける。道で転んでいるヤツがいれば助け起こしてやる。
 その時、俺は気持ちがいいんだ。
 いいことをした。善人になった。人助けの気持ちよさだ。
 実は相手のことなんてどうでもいい。心の底から相手を心配しているわけじゃない。
 自分の満足だけなんだ。利己的善行だ。」

「どんな生き物だって、自分が満足したくて生きてる。
 充実こそが人生最大の目的だから。
 じゃあどうして、充実の手段がキレイさにしかないのか……」


そもそもこの『Rewrite』の脚本は複数人によって手がけられていますが、そのうち最も中核部分を担当したのは僕が最も尊敬するシナリオライター・田中ロミオでした。彼がこれまで世に出した数々の傑作には一貫したテーマがあり、それは端的に表現するならば「自己vs他者」であると僕自身は解釈しています。ただこれは自分と他人のどっちが大事かとかそういう話ではなく、いわゆる自我意識のずっと深いレベルにおいて、他者性をどこまで許容し、どこからを排除するかといった線引きの微妙さを追究するものです。たとえるならば我々が普段住んでいる家には「壁」がありますが、その壁には必ず窓や換気口などの外気と交通している「穴」が多数存在しているはずで、もしそういったものが無く、分子一つ通さぬような完全な密閉空間であれば我々は窒息死してしまいます。人間の心も似たようなところがあって、他者の意見に何でもかんでも同調して周囲に完全に溶け込んでしまえば、それは自分という概念が希薄化され消えてしまうことを意味するため、人は誰しもどこかに外界との壁を設けることを欲します。ですがその一方で、その壁を強固にしすぎるあまり外界と自己とを完全に遮断し、他者的な要素をまったく受け入れないようになってしまえば、その時点で彼の精神の成長は止まり、これもまた健全な人生とは言い難いものとなります。我々は普段の生活の中で、この壁の穴の大きさ、あるいは壁の透過度とも言えるパラメータを、その場その場の状況に合わせて無意識のうちに調整しながら過ごしているのです。

しかし、我々が当たり前のようにこなしているこの思考は実はとても高度なプロセスではないのか、そしてその無意識の心理作用の中にこそ人間の本質を把握する大きな手がかりを見出せるのではないか、というのが田中ロミオの哲学です。我々は日々、特に何も考えることなしに歩行という動作を行っていますが、身体やスポーツの専門家は、人が歩くときはどの筋肉にどのような力が生じて、どの骨がどう動くかということまで突き詰めることで人体についてのより深い洞察を得ます。それとまったく同様に、田中ロミオは、人々が日常的に素通りしている思考過程をあえて非日常的なシナリオの中に落とし込むことによって、その全容を浮き彫りにし、我々が見て見ぬふりをしている「自己vs他者」の均衡の曖昧さに真正面から斬り込んでいくというスタイルを貫きます。そしてまさしくそれを独特の筆致で体現した作品こそが、彼の代表作である『CROSS†CHANNEL』や『最果てのイマ』でした。

ただ、最新作である『Rewrite』はこれらとはやや毛色が違うのではないかと思わせる箇所が目立ちました。まず一つは、地球環境問題を物語の基調として据えており、結果として現実社会的なテーマ色が濃い作品になっているという点です。しかしその一方で、生命オーラの具象化や星の化身、魔物といったファンタジー要素を積極的に取り入れ、科学・非科学の両側面から生命や生物に対する強い視線が放たれているのもまた、今までの田中ロミオにはない新しい試みでした。そして何より特筆すべきは、冒頭で述べた台詞のような利己や利他といった行動原理への言及、またそこを起点にして我々が持つ善悪の価値基準にも思考を巡らせるといった社会倫理的な主題をも包含しているという点です。一つの作品の中でこれほど多方面へ展開された個性を前にして、従来の田中ロミオファンである僕自身、初見では驚きを隠せなかったと同時に、果たしてこれは「全体としてこういう作品だ」という明瞭な認識にまとめることができるのかという戸惑いを強く感じました。事実、インターネット上にはこの『Rewrite』に対する多数の批評感想や長文考察が挙げられていますが、そのどれもが部分的な解釈のみで終わってしまっており、作品の真意を理解するにはいま一歩届かないという印象がどうしても残りました。(もちろんそういった種々の考察の価値は十分に高いものであり、特に細部の疑問点にきちんとした説明を付与してくれているサイトなどは僕も大いに参考にさせていただきました。)

ですが、実はある哲学者の名前を思い浮かべることにより、この『Rewrite』という難解な物語の見通しがずいぶんと良くなるのではないかと、あるとき僕はふと気付かされました。その哲学者とは、19世紀末のドイツにおいて革新的な思想を提示し、現代に至るまで哲学史に並々ならぬ影響を与え続けている人物、「フリードリヒ=ニーチェ」です。しかしこのニーチェの思想自体もまた大変に厄介な代物であり、詳しく読解しようとするとかなりの根気と労力を必要とするわけですが、たとえば途中いくつか段の欠けたハシゴが二つあるとき、それらを重ね合わせると互いに互いの足りない部分を補って一段一段無理なく登っていくことができるという工夫方法があります。それと同じように『Rewrite』と「ニーチェ」についてもまた、互いに照らし合わせながら分析していくことで両者の本質に対する理解が効率的に得られるのではないかと考えます。したがって今回の僕の考察では、ニーチェ哲学の要点をわかりやすく整理する一方で、『Rewrite』については田中ロミオの本来の思索に加えて、上述した複数の作品テーマを含む全要素を一元的に捉えきることを目指します。また最終的にはそれらの比較を踏まえた上で、現代社会を生きる我々が非常によく誤解されやすいニーチェの思想をどのように位置づけ、正しく生かしていけばよいかという点まで論を進めてみたいと思っています。そしてその過程の中にこそ、僕自身が幼少の頃に抱いていたあのモヤモヤ感に対する一つの明快な回答を見つけられるのではないかなと期待しています。




(2)『Rewrite』と「ニーチェ」の概要

まずは『Rewrite』という物語についてですが、そもそもこのタイトルは主人公・天王寺瑚太朗が自らの身体能力を任意に書き換えることができる人間(リライト能力者)であるという設定に由来します。すなわち何らかの窮地に立たされたとき、その状況を切り抜けられるレベルにまで自分自身を高めることが可能だということであり、これは言うまでもなく地球上における“生命の進化”の過程を暗喩するものです。もちろん生物学が定義する本来の進化とは生物自らが「己を環境へ適応させよう」とする動きではなく、多様性をもった集団の中で環境に適応しない種は淘汰され、環境に適応する種だけが選択的に生き残って繁栄していくという一連の流れによって説明される現象ですが、『Rewrite』においては天王寺瑚太朗という一人の人間の自我の中で、この進化の全プロセスが高密度に凝縮した形で再現されているということであり、このことは物語後半の展開において非常に大きな意味を帯びてきます。しかし物語の最初のほうでは彼は自身の特殊能力をこころよく思っておらず、極力それを使わないようにして、普通の人間と同じように学園生活を送ることを心がけます。「あえて本気を出さずに周囲の基準に合わせることで満足する」という彼の態度が、序盤における象徴的な描写の一つです。

やがて話が進むにつれて、主人公は日常から非日常へと足を踏み入れていくことになります。その背景に描かれるのは地球規模で広がりを見せる環境破壊のニュースであり、その問題は世間一般の人々が想像している以上に深刻で、世界の“真相”を知る一部の者にとってはもはや人類の存亡に直結する重大事態と化していることが徐々に明かされます。そんな中、世界の“真相”を巡る二つの大きな勢力の闘争に主人公は巻き込まれ、やがて積極的にその戦いの中に身を投じていきます。彼がどちらの勢力に属し、どのような行動を取るかは、ゲームの中で我々プレーヤーが選ぶいくつもの選択肢の結果によって変化するのですが、それらの選択肢の中でも特に重要度が高いのが、主人公が不思議な部屋で偶然見つけた紙に書かれていた質問、「あなたには力があり、世界に不服があります。さあ、あなたは世界を変えたいですか?それとも、自分を変えたいですか?」に対する、「世界」「自分」「決められない」の選択肢です。ここには田中ロミオの哲学である「自己vs他者」が実に強くにじみ出ているように思います。しかしながら、この最も示唆性が高いと言える選択肢でさえ主人公を真の結末へ導くものではないという点が、逆説的に『Rewrite』の作品としての壮大さを示すことになります。

というのも、いくつかの選択肢の選び方次第で主人公には大きく5つの結末が用意されていますが、実はそのいずれにおいても人類は滅亡を避けることができず、大団円には遠く及ばないのです。しかしそれら全てのエンディングを終えた後に出現する新章「Moon」からのシナリオこそが物語の後半戦であり、『Rewrite』の真骨頂です。ここにきて我々は、この作品が人類および生命に課せられた滅びの運命を“書き換える”ための戦いを描いたものであることを知ります。具体的な内容については後の考察で詳しく触れようと思いますが、物語の最終局面において主人公はついに地球の化身である一人の少女のもとにたどり着き、そして彼女が人類に対して真に望んでいたものとは、人類が長い間忘れてしまっていた「未来を切り開くための力と意志」であったことを悟ります。それは「たとえ母なるこの星を食いつぶしてでも、我々は繁栄していかねばならない」という決意でした。つまりこの作品は地球環境保全をテーマと見せかけておきながら、最後にはそれに対する強烈なアンチテーゼへと到達するのです。地球第一ではなく人間第一で考えよ、生き物にとって最も基本的な命題を我々は決して忘れてはならないのだ、という思想です。それは母親の胎内に発生し、養分を奪い取って意のままに成長し、やがて外の世界に誕生せんと欲して産声を上げた、我々すべての人間の原点における力強さをも彷彿とさせるものです。もしも地球に意思があるならば、人々が星を気づかうあまり自らの生を閉ざそうとすることをはたして喜ぶだろうか。たとえそれによって星の命が危険にさらされようとも、母なる地球は子である我々がどこまでも発展していくことを望み、人類の可能性を祝福してくれるのではないだろうか。こういった視点を究極的に描ききったのが『Rewrite』という作品です。

しかしながら、この視点に対して「そこまで自己肯定してしまっていいのだろうか」と思われた方も多いのではないかと予想します。もちろん我々が普段生活する社会において環境保護は大切な概念です。ですが「地球のために」という理念の綺麗さに取り憑かれて、我々はいつしか自身の生を滅ぼず方向に正義を定めてしまっているのではないか、それでは本末転倒ではないか、という警鐘を鳴らしたのが『Rewrite』です。そしてまさにその「本末転倒」であるという同じような指摘を、19世紀末の西洋哲学に対して行った人物こそがニーチェでした。

ニーチェの言葉の中でおそらくもっとも有名なものが、「神は死んだ」ではないでしょうか。実際にこの一言は、彼の思想をこれ以上ないほど的確に表しています。彼はキリスト教をはじめ世界のあらゆる宗教を全否定し、「神などという超常的な存在はいない。そんな信仰はとっとと捨ててしまえ」と叫んだのです。現代を生きる我々でさえ「そんな身も蓋もないことを……」と怪訝な表情をつい浮かべてしまいますが、当時の社会、特に西洋哲学というものはキリスト教を大前提に据えており、本来ならばむしろ神の絶対性を論証する側の哲学者たる人間が「神は死んだ」と言い出したわけですから、人々の衝撃は計り知れないものだったと思います。それゆえに今でもニーチェは、ウィトゲンシュタインやハイデガーとともに“反哲学”の代表として名前を挙げられることがしばしばです。

そういった性質のものであるために、ニーチェの思想に対してはついついネガティブな印象を抱いてしまう人も多いのではないかと思いますが、実はそのイメージは間違いです。まず“反哲学”という位置づけについてですが、たしかにニーチェは反宗教を打ち出しました。しかしそれは反哲学と同義ではありません。彼は宗教を離れたところに本当の哲学があると考えたのであって、哲学そのものを否定したかったわけではないと思います。むしろ誰よりも深く哲学を愛し、妥協を一切許さない哲学的態度を徹底して貫いてみせたのがニーチェという人物でした。(個人的には、哲学史上で純粋な意味で反哲学を行ったのはウィトゲンシュタインただ一人だと僕は考えています。)また、ニーチェの思想について“ニヒリズム(虚無主義)”という側面が強調される場面にもよく遭遇しますが、これも大きな勘違いを生みやすい言葉です。たしかに彼は神や宗教を否定し、それによって担保されている既存のあらゆる価値観についてもすべて幻想であり虚無であると言い切ります。しかし彼はけっして、「この世界には何の価値もない。だからどうせ何をしても無意味なのだ……」という無気力な生き方を推奨しているのではありません。むしろ彼は次のように主張するのです。「この世界には何の価値もない。だからこそ我々はあえて前に進もう。自分の生きる意味がどこにもないのであれば、自分自身の手でつくりだすのだ!」と。ニーチェの哲学はネガティブどころか、どんな困難にもおそれず立ち向かってゆく熱血ヒーローアニメの主人公ですら唖然としてしまうほどの、圧倒的なポジティブ志向なのです。

ではここでニーチェ思想の具体的な内容について、大きく3段階に分けて考えていきたいと思います。まず1つ目はやはり宗教批判ですが、彼がそもそもどうしてそこまで神や宗教を否定しようとしたのかを理解するためのキーワードとなるのが、彼自身が何度も強調するところの「ルサンチマン(ressentiment)」という概念です。これはあえて日本語に直すならば「弱者が強者に対して抱く憎悪」であるとされますが、もう少し詳しく説明するならば、喧嘩に負けた人間が相手のことを恨みながら「喧嘩が強いからって正しいわけじゃないんだからな」と心の中で負け惜しみを言うような感情です。ニーチェは、宗教の根底にあるのは結局この「負け惜しみ」ではないかと指摘したのです。たとえば目の前に自分が逆立ちしても稼げないような大金を保有する人間がいて贅沢な暮らしを自慢してきたら、誰もがうらやましいと感じると同時に、次のような思考が多かれ少なかれ芽生えるのではないでしょうか。すなわち「俺は質素な暮らしを無欲に過ごしている善良な人間だ。目の前のこいつは身に余る贅沢を満喫しているが、そんな欲深い行為は悪だ。悪だと思いたい」と。そしてさらにそれを正当化しようとするなら、やがて次のような考えに至ります。「神様は自分たちのような貧しい人間を救ってくれるはずで、逆に金持ちは金持ちであるというだけで罪であり、死後に地獄に堕ちるに違いない。きっとそうに決まっている」と。つまり物理的にはどうしようもない格差を見せつけられたときに、自分の側に有利な尺度を設定して「俺は正義で、あいつは悪だ」と自分に言い聞かせることにより、いわば精神的に優位に立って悔しさを晴らそうとする性質が我々にはあり、宗教における善悪とは結局のところ、そういったルサンチマンに起因する不健全な価値基準でしかないとニーチェは言うのです。もちろん彼のこの指摘は一面的なものであって、これによって宗教の全要素が即座に否定されるわけではないと僕自身は思いますが、実際に新約聖書のイエスの言葉には「富裕者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがまだ簡単である」といったものがあるのは有名であり、宗教の本質を議論する上で非常に興味深い考え方であることは疑いありません。

ともかくもこういったことから宗教を否定し、善悪の価値をも排除しようとしたニーチェの哲学は、2段階目へと入り、先述したような虚無主義の様相を色濃く呈します。たとえるならば、ゴールの存在が消えてしまった迷路でさまよい続けるようなものです。「何をやっても結局は同じ」「どう進んでもふりだしに戻ってしまう」というその状態を、彼は「永劫回帰(Ewige Wiederkunft)」と名付けました。想像してみればわかるように、そこには何の楽しみもありません。だからこそ、ニーチェはその状況を打破することこそが理想の生き方であると説きました。すなわち「ゴールがないならば自分でゴールをつくればいいのだ」という考えを持つわけです。それこそがニーチェ思想の3段階目であり、そのようなたくましい生き方を実践して自らの手で価値を生み出していける人間のことを、彼は「超人(Uebermensch)」と呼びました。では、神も宗教も信じないというその超人の足を前に進める原動力はいったい何なのかというと、それは「力への意志(Wille zur Macht)」であるとニーチェは言います。先ほどのルサンチマンの例に戻ってみるとわかりやすいのですが、仮に自分よりお金を持った人間が目の前にいてうらやましいならば、少しでもその差を埋めようとお金を稼ぐ努力をすればいいのです。喧嘩に負けて悔しいならば、次の喧嘩で勝てるように自分を鍛えるべきなのです。最初から自分に限界を設けて無理だとあきらめ、実在しない神がいつか相手を懲らしめてくれることを想像して溜飲を下げるだけの人生でいいのか。そんな風にあの世の幻想に目をそらすのではなく、目の前に存在するこの世の現実をしっかりと見据えて、自分が今達成したいと思っている欲望を全力で遂行することが人間にとって一番健全な姿ではないのか。そういった考え方こそが「力への意志」です。ニーチェは要するに「本気で生きろ」と言っているわけです。他の何かに遠慮などせず自分が在りたいように在ればいいのだという強い自己肯定感が、彼の思想の根幹をなしています。

ここにおいて、ニーチェの思想が「地球を犠牲にしてでも人類は繁栄していかねばならない」とする『Rewrite』の主題と非常によく重なり合うことにお気づきいただけるのではないかと思います。また『Rewrite』の終盤において人類が忘れかけていた大切なものとして「未来を切り開くための力と意志」という言葉が出てきますが、これはニーチェの「力への意志」を連想させる表現です。さらには、物語の中盤以降では主人公を含め様々な特殊能力を有する人々のことを「超人」と総称していますが、本来ならば「超能力者」のような呼称が自然であるところにあえてその名詞を用いているあたり、田中ロミオがニーチェを意識していたことを仄めかすものであると言えます。(もちろんニーチェのいう超人とは大きく意味が異なりますが。)ともあれここでは、『Rewrite』とニーチェ思想の両方に共通しているのは「圧倒的な生の肯定」であるという点をひとまず強調しておきたいと思います。




(3)ニーチェの思想では社会秩序を保てるのか

以上で述べたことだけを改めて眺めてみると、正直言ってニーチェの考え方は「ちょっと危ないのでは」という声が多数あがりそうな内容です。ニーチェについて、おそらく人々が最も誤解しやすいのがこの部分なのではないかと思います。歴史的にも、第二次世界大戦時にナチス・ドイツの党首ヒトラーがこの「力への意志」を都合良く解釈し、他国に対する侵略戦争を正当化するための論拠として用いたという事実があります。(ニーチェ自身はむしろ国家主義を嫌っていたことは生前の著作にも示されており、ヒトラーの解釈はニーチェ本来の思想とは別物であるという結論が専門家の間でも一致しています。)しかしながら実際問題として、誰もが力を志向し自らの欲望を全力で満たそうとする社会では争いが頻発し、秩序が保てなくなってしまうのではないかというのは至極当然の指摘であろうと思います。

ところが非常に面白いことに、彼は主著の一つである『道徳の系譜』においてかなり意外なことを述べています。該当箇所全部を引用すると煩雑でわかりづらい(というかニーチェの文体がそもそもわかりづらいのですが……)のであえて一言で要約すると、それは「人間にとって約束を守ることが大事だ」という内容なのです。これはまた狐につままれたような心地がしないでしょうか。本当は彼の哲学というのは何も筋が通っていなくて支離滅裂なのではないのかと疑ってしまいたくなります。なにしろ一方では「自分の欲望のままに生きろ」「何にも遠慮することなく力を求めよ」と言っておきながら、他方では「他人との約束は守りましょう」と素知らぬ顔で言い放っているのですから。しかし、実はこのニーチェの論は矛盾していないのです。次のように考えてみて下さい。もしある人が休日に友人と遊びに行く約束をしたとします。しかし当日になってみたら、どうも気分が進みません。その状況で「じゃあもう約束なんかすっぽかしちゃえ!」となる人間と「自分の気まぐれで約束を反故にするわけにはいかない、ちゃんと行こう」となる人間では、第三者から見てどちらのほうが「強い」人間に映るでしょうか。それは後者ではないかと思います。そしてニーチェが理想像とする「超人」もまた後者なのです。なぜなら超人とは、そういった精神面での力をも追求する存在だからです。

すなわちニーチェの言う「力への意志」とは、単純に生存欲求や権力欲、金銭欲のことだけを想定するものではなく、もっと広い意味での“自己実現”をさしているのです。そして「超人」とは、神のような超越的な概念を想定せずとも現実世界の思考のみで善悪の判断をしっかり持ち、自己実現へと積極的に歩を進めることができる人間なのです。したがって誰もが超人を目指す社会においては、たとえ宗教がなくても一人一人が自分で自分を律することができるため社会の秩序は乱れない、というのがニーチェの考えではないかと思います。

そもそも善悪の倫理観を形成するために、どうして神の存在が必要なのでしょうか。ニーチェは「実はそんなもの必要ないのではないか」と言うばかりでなく、「むしろ神などというものを想定するから我々の思考はそこで停止してしまい、物事の本質が見えなくなってしまっているのではないか」と主張するわけです。非常に抽象的な議論なのでつかみどころのない話に思えるかもしれませんが、いくぶん身近な例として次のようなものを考えてみたいと思います。「三平方の定理」という数学の定理があります。別名を「ピタゴラスの定理」とも言い、直角三角形において最も長い辺をcとして他の二辺をa, bと置けば、aの2乗とbの2乗を足したものがcの2乗になるという性質を述べたもので、中学数学で習い、その後の数学でも各所で役に立つ非常に重要な定理です。しかし僕の記憶が正しければ、中学校の数学の教科書にはこの三平方の定理がどうして成り立つのかという証明が書かれておらず、ただ「こういうものです。覚えましょう」とばかりに結果だけ書かれていた気がします。したがって、次のように考えることも可能です。「ある日、神が現れて、三平方の定理は正しいと言った。だから三平方の定理は正しい」と。仮に心の底からこう信じている中学生がいたとしましょう。彼は中学数学で問題を解くのに困ることはないでしょう。その後の高校数学でも全く困ることはないし、大学入試も難なくクリアできるはずです。なぜなら三平方の定理を正確に使えれば解ける問題ばかりで、なぜそれが正しいのかという部分については問われないからです。さらには三平方の定理だけでなく、他のあらゆる公式についても「神がそう言ったから正しいのだ」と思い込んで全て丸覚えしていたとしたらどうでしょうか。やはり同じ理由で、彼の人生に大きな支障はないでしょう。しかし、それはあくまで高校レベルまでの数学の話なのです。もし彼が大学で数学を専攻して数学者の道を志すなら、さすがに影響が出てくるのではないでしょうか。なぜなら「神がそう言ったから正しい」と思考を放棄していた分だけ彼の数学の視野はせまくなっており、応用が全くきかなくなってしまっているからです。つまり彼は「数学の本質を何も理解できていない」状態なのです。しかも、もし彼がふと「この世に神なんていないのではないだろうか」という疑念を持ってしまったらどうでしょう。彼にとって神の信憑性は、そのままあらゆる数学定理の信憑性です。神を信じられなくなってしまったら、彼の数学的知見は根本から揺らがざるをえないでしょう。

現代人は、まさにその状況に立たされているのではないでしょうか。科学の発達によって神や死後の世界を昔ほどは信じられなくなり、自らの生の根拠を喪失しつつあるにも関わらず、この期に及んでもなお宗教なくしては倫理観など作れるはずもないと思い込み、ただ手をこまねいて事態の悪化を見ていることしかできないのです。そんな中でただ一人、ニーチェはこう叫びます。「今までは神に頼っていたけど、これからは自分の頭で考えようじゃないか」と。神を信じられなくなったからと言って、三平方の定理が失われてしまうと考えるのは間違いです。なぜなら自分の力でそれを証明するという道が残っているからです。論理的にその定理が正しいという結論が導き出せたなら、神の名に頼らずとも、今まで以上に自信を持ってその定理を自由自在に使いこなすことができるはずです。だからこそニーチェは、善悪の価値基準についても「一から組み上げて証明しなおそうではないか」という心意気を人々に示したのです。

しかし当然ながら人生というものは数学と違って演繹性に乏しく、有り体に言えば「正解が一つではない」ことのほうが多いので、定理や公式の証明のように単純な話ではありません。ただそれでもある程度はモデル化することが可能ですので、ここで一つの具体例を挙げて考えてみたいと思います。

【例】A君は遠い異国の地を旅しており、市街地から離れた誰もいない山道で、ある男とすれ違いました。その男はなんと金銀財宝を体じゅうにまとっており、それを全部売りさばけば一生遊んで暮らせるほどの高価な品々です。そこでA君はすれ違いざまに携帯していたナイフでその男を殺し、金銀財宝を奪い取って立ち去りました。(今後何度かこの例話を引き合いに出すので、以後この話を「強盗殺人の例」と呼ぶことにします)

さて、このA君の行動はおそらくどの国のどのような文化でも「悪」という扱いになるのではないかと思いますが、何故これが悪だと言えるのか、論理的に説明することを試みてみましょう。ある人はまずこう言うでしょう。「強盗殺人は罪であると法律で決まっているからだ」と。しかし、この異国はもしかしたら最近新しく成立したばかりの国で、法律制度が正式に整っていないかもしれません。その場合は悪にはならないのでしょうか。次にこう言う人がいるかもしれません。「仮に法律に問われることがないとしても、人間は常に互いにやってはいけないことをある程度暗黙の内に了解しており、それを破ったものは後々みなから迫害を受けるなど、社会的に不利になる」と。しかしA君は遠い異国の地に旅行で来ているだけですから、金銀財宝を売りさばいたあと何食わぬ顔して故郷の国に戻れば、社会的に不利なことはないと言ってよいはずです。そもそも治安の行き届いていない山道でかつ誰も見ていない中での行動ですので、A君がやったということは誰にも知られることはありません。したがってA君は刑罰をふくめ社会的な制裁は一切受けることはありません。これでもA君が悪だという根拠が挙げられるでしょうか。「そもそも生命は尊いものだから、殺してはいけない」と言う人がいるかもしれません。では殺人はせずに強盗だけならば許されるのでしょうか。そこで次のように言う人がいたとしましょう。「人権の侵害だから悪なのだ。殺人は他者の生存権を侵しているし、強盗は他者の所有権を侵しているので、どちらか片方でも十分に悪だと言える」と。これは一見いかにも納得できそうな答えですが、実はまったく意味のない回答です。なぜなら「権利」という言葉の定義自体に「他者によって侵されないもの」という概念が入ってしまっており、要するにこの回答は「殺してはいけないから殺してはいけない。奪ってはいけないから奪ってはいけない」と言っているのと同じだからです。

ここまで来ると、そろそろ“神”に頼りたくなってくるのではないでしょうか。「誰も見ていなくても天上の神が見ていて、神は殺人や強盗が罪であると説いているからだ」と言えば、この話はいとも簡単に済んでしまいます。しかし、ニーチェは「そこに逃げるな」と言っているわけです。超常的なものに一切頼らず、“この世にあるもの”だけでA君の行動が悪であると何としても説明しなくてはなりません。

少し見方を変えてみましょう。僕は先ほどA君の行動が「どの国のどのような文化でも悪という扱いになるのではないか」と書きました。たいていの人には納得して読み進めてもらえたのではないかと思いますが、しかし本当にこれは正しい見解でしょうか。例外はどこかにあるかもしれませんし、現在はなくても、過去の歴史上どこかに例外が存在した可能性は大いにあります。すなわち「殺される方が悪い」という価値観を社会の中心に据えているようなコミュニティもあったかもしれないということです。しかし現代の世界を見渡してみたとき、社会が十分に繁栄している先進国の中には強盗殺人を善とするような文化は存在しないと言えるでしょう。これはいわば“淘汰された”と考えることができるのです。つまり強盗殺人を悪だと思えない社会、もっと言うと他者を傷つけることを悪とみなせない社会は、たとえ一時的に存在したとしても、現在までの長きに渡っては繁栄できなかったのです。そして実は、それは社会的慣習よりもっと深いレベルで人間の思考に刻まれているのではないかと思います。すなわち「他者を思いやる感情」です。もしかしたらそれは人間が社会や理性というものを自覚するずっと以前から、人類という種が生きのびるために必要だったものなのではないでしょうか。(あるいは、その感情を獲得した種が人類として生きのびることができたという表現のほうが正しいかもしれません。)ちなみにこの「感情」というのはニーチェの著作においてはあまり直接的に論じられていない観点ではありますが、彼の超人思想に対して洞察を深めるためのかなり重要な足がかりになると僕は考えています。

ではこれを踏まえた上で、先ほどの話に戻ってみましょう。ことわっておくと、僕は性善説のみで社会全体がうまく回ると考えている理想主義者ではありません。自身の欲望の前では「他者を思いやる感情」などちっぽけなものです。目の前に大金を持った人がいる、殺しても絶対にバレる状況ではないという立場にたったとき、誰もが「でもかわいそうだからやめておこう」と思いとどまれるかというと、それはどう考えても非現実的です。そんな理屈が通るならそもそもこの世に法律や刑罰すら必要なくなってしまいますが、現実はそうはいきません。しかし一方で善性というのは確かに存在するものです。たとえば神も仏もいない、天も人もあなたを罰することはないと保障された上で、仮にあなたが自分の欲望に駆られて通りすがりの金持ちの男を殺してしまったとき、どんな感情が心中に渦巻くかを想像してみてください。「ついにやりきった」という達成感、「これで遊んで暮らせる」という幸福感といったものが無いと言えばウソになるでしょう。しかしそういったプラスの感情に混じって、「なぜ自分はこんなことを」という後悔、「申し訳ない」という謝罪の気持ちも同時に湧いてくるという人が大半なのではないでしょうか。それは宗教や信仰よりもっと深い部分に根ざした、人間として、動物として、あるいは生物としての自然な感情ではないでしょうか。それを我々に与えてくれたのはイエスでもムハンマドでもブッダでもありません。彼らが現れる以前の遥か昔から我々が持っていたその根源的な感情を思い出し、自覚し、それを積極的に実現する道を己自身で切りひらくということ。これこそが「力への意志」であり、ニーチェの思想の最終到達地点ではないかと僕は考えます。




(4)超人は具体的にどのようにして生の問題へ対処するのか

では、結局我々にとってどういった生き方が理想なのかについて見ていきたいと思います。それについてのニーチェの提案は、もしかしたらニーチェ自身でさえ既存の言葉では的確に表現できないと悩んだのかもしれません。だからこそ「超人(Uebermensch)」という語を自ら造ったというふうにも感じます。しかしその超人の生き方をあえて一つの日本語で言い表すならば、「信念」という単語こそが一番近いのではないかと僕は考えます。

先述の「強盗殺人の例」を再び考えてみましょう。もしニーチェの思い描く超人がA君と同じ立場に置かれたら、どのような行動をとるでしょうか。超人はおそらく金持ちの男を殺そうともしないし、略奪行為にも出ることはないのです。そして、もしその直後に我々がその場に出現して、超人に向かって「どうして強盗も殺人も行わなかったのですか?」と尋ねると、超人はきっとこう返答するのです。「それは私の信念に反するからだ」と。まさしくこれこそが、理想の人間たる超人の導きだす答えだと思います。しかし我々にしてみれば、先ほどまであれほど理屈付けに頭を悩ませていたというのに、ここに至って「信念」のただ一言ですまされては納得がいきません。もう少し食い下がってみるべきでしょう。「なんでまたそんな面倒な信念をお持ちなのですか? それさえなければ、あなたは先ほどの人間を殺して得たお金で一生遊んで暮らせたというのに」と聞いてみましょう。すると超人はこう答えます。「一生遊んで暮らすよりも、私にとってはこの信念に従って生きることのほうが何倍も重要であり、より大きな充足感を得られるのだ」と。ならば我々はこう邪推してみることにします。「きっとあなたは何かの宗教をあつく信奉しているのでしょう。悪事をはたらけば神に見られてしまい、天罰を受けたり死後に地獄に堕とされたりするのが怖いから、殺しや盗みをしないのですね」と。しかしながら、超人は当然のようにこう返してくるでしょう。「いや、私は神も仏も死後の世界すらも信じてはいないよ。非科学的な仮定はあまり好きではないのだ。私はただ、様々な人生経験を通して自分なりにあれこれ悩んで考えた結果、“こういうふうに生きたい”という今の信念を持つに至ったのだ」と。

信念という言葉の響きに圧倒される我々を前にして、超人はさらにこう続けます。「私のこの信念の根本には、他者を傷つけたくないという感情があるのだと思う。もちろん大きなものではないが、しかし先ほどの人間を殺せば、私の心はそれなりの罪悪感を負うことになるだろう。たとえ一生遊んで暮らせるとしても、澄み切った気分で毎日を過ごすことはできない、言うなれば“寝覚めが悪い”のだ。そして私のこの他者を守ろうとする感情は、おそらく人間としての原初的な情動の中に起源があり、間接的ではあるけれども私は結局のところヒトという種の繁栄を望み、それにつながる行動をしていることになるのかもしれないな」と。ただ、実はこの最後の一点において彼は明確な論理の隙をつくっています。容赦なく反論しましょう。「あなたが先ほどの人間を殺すか殺さないかの選択は、人類の繁栄にはまったく影響しませんよ。地球上に人間は70億人も存在するわけですし、まさかあなた一人が殺人を犯した瞬間に人類全員にスイッチが入って殺戮行動を開始するというわけでもありますまい。つまりあなたは強盗殺人をすることによって莫大な金を手に入れる一方で、それによる人類や社会全体へのマイナスは実質的には無視できるほど小さいわけですから、結局のところ強盗殺人という選択肢をとるほうが明らかにメリットが大きかったのですよ」と。しかしこれに対して、超人はおそらく次のように答えるのではないかと思います。「ハハハ、あなたの言うとおりだ。でも寝覚めが悪いという感情はどうしても残ってしまう。そんなものを気にするのは愚かだと笑う人もいるかもしれないが、他者を傷つけたくないというこの感情を、私は大切にしたい。それが私の現時点での選択なのだ。」と。

我々の最後の質問によって超人の論理は完全に破綻していることがわかり、また彼自身もそれは承知しています。にもかかわらず、超人は笑って自らの道を歩もうとします。そして実はそれこそが、超人が超人たるゆえんなのです。“人間はのりこえられるべき何かだ”とニーチェは言いました。キリスト教が心から信じられていた時代、清く正しい道を歩むことの価値は神が保証してくれていました。しかし今や「神は死んだ」のです。理性と科学の光によって全ての風景がかき消され、自分を幸福へと導く道標さえもすべて失ってしまった現代の世界を、ニーチェは「大いなる正午」と呼び、どこへ進んでも何をやっても同じであるというその状況を「永劫回帰」と称しました。並みの人間であれば「もはや全ての行動が無意味だ」と宣告されたとき、力が抜けてその場にうずくまってしまうでしょう。しかし超人は違うのです。「わかった。よし、ならばもう一度!(Wohlan! Noch Ein Mal!)」と、あえて前に進もうとするのです。その道を往く意味などない、論理的に破綻している、といくら批判されようとも、彼は快活な笑顔を見せながらこう言います。「俺はこの道を歩みたいから歩むのだ。それは信念というほか無いが、こういう生き方もけっこう楽しいものだぞ?」と。この瞬間、たしかに彼は“人間をのりこえている”のです。

しかし、それでは本当の意味での解決になっていないのではないかと疑問に思う方も少なくないでしょう。すなわち宗教や信仰といったあいまいなものを排除した上で、人がどう生きるべきかについて現実的な解を模索するという目的であったのに、結局は理論に穴のある信念というものを持ち出してしまっているという指摘です。要するに「宗教」という非論理的なものから、「信念」という別の非論理的なものへと鞍替えしただけに過ぎないのではないかということです。それはまったくもってその通りです。しかしながら、その“鞍替え”に大いなる意味を見出したからこそニーチェは超人思想を説いたのです。ニーチェにとって宗教とは、人々の目を「あの世」へ向けることによって「この世」への未練を断たせるシステムでした。およそ宗教の僧侶はこのように人々に説きます。「あの世こそが真実であり理想であって、この世は不完全な仮象の世界に過ぎない。だからこの現世でいくら栄達を求めても空しいことであり、むしろ無欲につつましやかに生きることで、死後の永遠の幸福を得ることができる」と。しかしニーチェは、それこそが人類の「もっとも長きにわたる誤り」だとして真っ向から否定します。彼はおそらくこう言いたいのでしょう。「あるかどうかもわからない、そしておそらくありはしない死後の世界や神のために、どうして現実世界の喜びを減じなければならないのか。人間を幸福にするためだったはずの宗教が、実際には人間の幸せを制限してしまうだけの存在になり下がってはいないだろうか」と。敬虔な宗教の徒は、おいしいごちそうをお腹いっぱい食べたいと思っても贅沢をあえて避けるでしょう。自分が心の奥底からやりたいと思うことがあっても、それが教えに反することであれば自らの願望を無理矢理にでも抑えて諦めるでしょう。そうやって「神のため」「死後に天国へ行くため」と自分を戒めて、我慢に我慢を重ねて清貧な人生を全うしたあと、さあようやく死んで本番のあの世へ旅立てる、これだけ耐えたんだから死後はさぞ幸福な生活が待っているのだろうという段になって、「いざ死んでみたら神も天国もありませんでした」では、あまりに理不尽で、救いがないではありませんか。「ならば、枷にしかならないそんな信仰はいっそ捨て去ってしまえばいいのだ」とニーチェは言ったのです。やりたいことを自分の力の限りやればいいのだ。いま目の前にある生をしっかりと見つめ、そして心ゆくまで挑戦し、探究し、謳歌せよ。それ以上の正義など、この世のどこにもありはしないのだ。ニーチェ思想の圧倒的なポジティブさは、いわば自らを封じる鎖を叩き壊して自由を手にした瞬間のような希望と自己主体感に満ちあふれているのです。

だからといって、誰もが自分の欲望のままに生きる社会では秩序が保てなくなるのは自明です。しかしニーチェが説く超人思想は、その点をも克服しています。超人は、つながれていた鎖を自らの手で断ち切ったとしても、自由になったのをいいことに好き勝手に暴れ回るような存在ではありません。鎖があるから大人しいが、鎖が切れれば猛威をふるうというのであれば、それは動物となんら変わらないのです。人間の理性とはその程度のものなのでしょうか。ニーチェは力強く否と答えます。「宗教」という鎖を破壊し、その代わりに「信念」という心を持つことで自らのあるべき姿を保とうとする超人の生き様こそ、人間がもっとも目指すべきものであり、他の動物とは違う人間本来の力強さとはそこにおいてこそ発揮されるものなのです。

先ほどの「強盗殺人の例」に最終的な結論を下しましょう。目の前の人間を殺せば大金が手に入るという状況で、宗教の徒は「殺さないし、奪わない」という選択をするでしょう。それはたとえ誰が見ていなくとも神は見ているから、そして死後にその行為を咎められて地獄に堕とされるのを避けたいからです。その本質は天罰に対する恐怖心であり、また将来のより大きな幸福に無理矢理目を向けることによって今現在の欲望を見なかったことにしようとする、いわば逃避行為に他なりません。しかもその将来の大きな幸福というものは結局存在しないのです。ところが、超人は同じように「殺さないし、奪わない」という選択をしますが、その心理状態は宗教の徒とはまったく異なっています。超人の強い眼差しは、あるかどうかもわからないあの世に向けられることは決してなく、ただ今ここにある世界だけを見据えています。そして心の内側に生ずる様々な葛藤をすべて受けとめた上で、他の誰でもない自らの意志で信念を遂行します。論理的な損得勘定では、殺して奪うことのほうが明らかに自分にとってプラスであることを了解しながらも、超人は堂々と“損”な道を選び取ることを良しとするのです。「大金を得るチャンスを見逃してしまったことは否めない。だが、私は自分にとって正しい、あるいは美しいと思える信念通りの行動を貫くことができた。世の中の誰がほめてくれずとも、なんと誇らしいことだろう」と満足げに立ち去るのです。

宗教の徒は「罰せられたくないから我慢する」というネガティブ志向が先立ち、また死後における報酬を期待している点で結局は打算的であり、しかもその打算は裏切られます。自分の人生の尺度を自分以外の何かが定めてくれることをただ待つしかないその姿の頼りなさに比して、超人の生き様たるや、雄大でまぶしく、どんなことにも動じない安定感があります。なおかつ超人の心の中は常に自己実現の喜びに満ちているのです。今回の強盗殺人の例においては宗教の徒も超人も外面的には同じ行動をとりましたが、両者の生に対する態度の違いは、普段の日常生活のあらゆる場面においてにじみ出てくるのではないかと思います。そしてその時、一体どちらのあり方が人間にとって真の幸福だと言えるでしょうか。ニーチェの結論は言うまでもありません。あえて彼の言葉を引用するならば、「高く登ろうと思うなら、自分の脚を使うことだ。高い所へは、他人によって運ばれてはならない。人の背中や頭に乗ってはならない」ということなのです。




(5)宗教の形式主義化へ対抗するためのニーチェ哲学

ニーチェの思想の流れを一通り見てきましたが、ここで強調しておくべき非常に大切なポイントは、超人の抱く信念はあくまで個人的なものであるがゆえに、自らの成長や人生経験にあわせて随時更新していくことができるという点です。人間、何十年も生きていれば必ず人生観が変わるものです。「あのときはああすることが正しいと思っていたけど、視野が広がった今はこちらの選択肢のほうが正しいと思えるようになった」という風に、信念自体もまた進化を遂げていくことで、人生の様々な問題を処理できるようになります。

しかし一方、宗教の戒律にはそこまでの自由度は期待できません。キリスト教の新約聖書に至っては、ヨハネの黙示録の最終章(22章)にて、「もしこの聖書に新たに文を付け加える者がいれば、神はその者に災いを与える。もしこの聖書のいずれかの文を取り除く者がいれば、神はその者の命を奪い取る」というかなり物騒なおどし文句まで書かれてしまっている始末です。僕はそれが全面的に悪いことだと批判するつもりはありませんが、何百年、何千年前の社会に生きていた人間の思想を一字一句変えずに現代に適用しきれるのかという点については首を傾げざるを得ません。そういったことへの反省があったのか、キリスト教が出現してから600年後にムハンマドが新たに創始したイスラムにおいては、聖典コーランをもとにして時代時代に合わせて更新されていくシャリーア(イスラム法)の運用が、宗教内のシステムとして明確に定められています。しかしながらそれなりに合理的な制度として功を奏してきたシャリーアも、あくまでムハンマドの言動の解釈の変更が主であり、彼の言動そのものの正当性を疑うことはやはり信者にとっては許されざる行為ということになるのではないかと思います。宗教が宗教という形をとるかぎり預言者や聖典への権威付けは避けられず、それゆえに時代が進むにつれて齟齬が増えてしまうのは、致命的とまでは言いませんが、宗教が抱える一つの大きな短所であろうと思います。ニーチェの説く超人思想は、そういった宗教の弱点を完全に克服した考え方であると言えるのです。

さらにニーチェ本人でさえ気付いていたかどうかはわかりませんが、上述したことに加えてもう一つ、超人が宗教の徒よりも有利であると言える点があります。そして実はそれこそがニーチェ思想を評価する上で最も肝心ではないかと僕は考えているのですが、それは「超人の信念が彼自身の内なる感情に依拠している点」、もっと言うと「自分の感情を自覚し、尊重することができるという点」です。

先ほども述べましたが、人間には他者を思いやる心情、無為に他人を傷つけたくないという心理が存在します。もちろんそれは人間の全ての悪事や暴力を未然に制止できるほど大きなものではありませんが、しかしゼロではなく、人々の心の中に確かに存在するものです。そしてそれは、まさしくイエス=キリストが説いた“隣人愛”の概念と同一のものではないでしょうか。しかしながらキリスト教は、その愛の大切さを民衆に広め理解してもらうために、どうしても全知全能なる神という存在を持ち出さざるを得ませんでした。果たしてその効果は絶大であり、キリスト教は全世界に広まり、そして多くの人間が「汝自身を愛するように汝の隣人を愛せよ」という言葉を胸に刻むようになりました。もちろんそれ自体は実にすばらしいことです。しかしその貴ぶべき思想の浸透の影にひそむ最大の問題点は、人々にとって「隣人を愛せよ」というその言葉が、神の声、あるいはキリストの声としてしか聞こえなくなってしまったことにあります。それは本来、我々一人一人が自分自身の声として心の内に持っていたものなのです。イエス=キリスト本人は、あくまで「自分の内にあるその声に気付きなさい」「それを大切にしなさい」と強調したかっただけなのかもしれません。しかし時代を経て教えが権威化されていくうちに、いつしか人々は「イエス様が言ったのだから、隣人を愛さなくてはならない」「父なる神がそうしろとおっしゃるから、他者を思いやらなくてはならない」と考えるようになってしまったのではないでしょうか。すなわち神という超越者が放つまばゆい威光によって愛の名義が塗りかえられ、それがもともと我々自身の心の声だったという事実を誰もが忘れ去ってしまったのです。

皆が神を心から畏れ敬っていた時代なら社会はそれでも回ったかもしれません。しかし科学と合理主義が幅を利かせ、信仰の信憑性が薄れてきた現代において、人々はいよいよこう考えるようになります。「どうせ神も天国もないのだから、もはや隣人愛を実践する価値もまたどこにも存在しないのだ」と。これではまるで元の木阿弥以下の状態であり、キリストが現れる以前よりも社会のモラルは低下し、人類の繁栄と平和は阻まれてしまうでしょう。ならば、この結末を避けるために残された道とは何でしょうか。言うまでもなく、それは人類が自らの心の声を再び自覚するということです。二千年前、イエス=キリストが我々に気付かせてくれた感情と同じものを、今度は一人一人が、神の名に頼ることなく自らの意志で再発見し、その上に他の誰でもない自分自身の信念を築いていけばいいのです。過去の超越神信仰や既存の道徳体系によって固く凍てついてしまった心の氷を打ち砕き、その深奥に弱々しくゆらめく他者愛という名の篝火を見つけ出し、これを煽って自らを創りかえる巨大な炎へと変える、そういった力強い生き方を我々は目指さなくてはならないのです。それこそがニーチェの超人思想だと、僕は考えます。

イエス=キリストはかつて、ユダヤ教が陥っていた過剰な律法主義を批判する形で、「大切なのは心だ」と主張してキリスト教を新たに確立しました。しかし二千年の時を経てその教えもまた権威化されてしまい、追従と打算のはびこる世になってしまった現代社会において、人々に対して再び「己の心の内を見つめよ」という警句を放ったのがニーチェだったと言えるのかもしれません。

「君たちは、まだその自己を探し求めない前に、この私を見出した。信者というものはすべてそうだ。それゆえに、すべての信仰はかくもみすぼらしい。いまや私は君たちに命じる。私を棄て、君たち自身を発見せよ、と。そして君たちがみな私を否定したとき、はじめて、私は君たちのもとに帰ってくるであろう。」ニーチェは、人類を導く真の預言者(彼はそれを仮にツァラトゥストラと呼ぶのですが)が現れるとすれば、その者はこのように語るべきだと考えたのです。




(6)『Rewrite』の物語に込められた主題とその意義

長らくニーチェの思想について論じてきましたが、ここまで掘り下げて解釈することでようやく『Rewrite』の真髄に触れることができます。当作品の主人公・天王寺瑚太朗は自らの身体能力を思うがままに強化できる、正確には自身の情報を任意に書き換えることができるリライト能力者と呼ばれる人間ですが、同時に彼は自らの生に漠然とした空虚感を抱いており、緑化都市内の学園における普通の日常生活の中に居場所を求めようとします。それゆえに彼は自らの特殊能力を隠し、本気を出すことを常に避けながらも、その状況に一定の心地よさを感じるようになります。しかし個性的な友人たちと過ごす楽しい日常には次第に不穏な影が忍びより、やがて彼は人類が直面している「滅び」の予言と、それを巡って行われている地球規模の闘争の実態を知ることになります。その真相とは、緑化都市内で天王寺瑚太朗の前にたびたび姿を現していた謎の少女「篝(かがり)」が、地球の意思を具象化した“星の化身”というべき存在であり、いまや限界を迎えようとしている地球環境を再生するために、まもなく彼女自身の手によって人類に裁定が下されるというものでした。

それを踏まえた上で、マーテルという名の環境保全団体を母体として「篝」の裁定を遂行させようとする“ガイア主義者”と、あくまで人類の存続を掲げて「篝」の目論みを阻止しようとする“ガーディアン”との間に対立が生じ、水面下で熾烈な戦闘行為が繰り広げられていることが描かれます。そして天王寺瑚太朗の友人であった学園生たちが、実はある者はマーテルの聖女や魔物使い、ある者はガーディアン所属の戦闘員、そしてまたある者はガイア主義者とは別系統で独自に「篝」を守る使命を代々受け継いできた一族ドルイドの少女であることが明かされ、ゲーム内において我々プレイヤーが選んだ選択肢によって主人公である彼がどの陣営につくかのストーリーが分岐し、各々にエンディングが設けられています。天王寺瑚太朗は自らの書き換え能力を発揮して戦士として成長していくものの、いずれのルートにおいても最後は「滅び」の運命を避けることができません。「篝」は、ヒトへの裁定を回避したくば自分に人類の「良い記憶」を見せろと忠告を発しますが、人類が独善的ではないこと、環境保護を重んじているということをいくら主張しようとも、彼女の心が動くことはなく、やがて世界は終焉を迎えてしまいます。

しかしながら全てのエンディングを終えたあとに「Moon」という新たな章が開放され、天王寺瑚太朗の魂が月面にて目を覚ますところから、物語は大きな転換を迎えます。そこには「地球の篝」と非常に良く似た「月の篝」と呼ぶべき少女がいて、彼女は生物のいない月面においてたった一人で悠久の時間を過ごしながら、地球文明に関する“研究”を行っていたのでした。すなわち彼女は、その卓越した知性によって地球文明がたどる無数の分岐世界の全てを把握し、幾度となく繰り返される「滅び」の運命に対して干渉と観測を続けながら、生命存続の可能性をずっと探っていたのです。ここで我々プレイヤーは、これまで主人公視点で見てきたいくつかのエンディングが、月の篝が観測してきたそれらの分岐世界のごく一部であったことを悟りますが、天王寺瑚太朗自身もまたそれを自覚し、「滅び」以外の結末を見つけ出してそこへ到達するために、彼女が行っていた「命の理論」の研究を手伝うことに決めます。そしてその作業中に彼女と様々な対話を交わすことにより、彼は己の深奥に自我意識を規定するプロトコルのような存在を垣間見るなど、生と個に関する深い見識を得ると同時に、次第に表情が豊かになっていく月の篝に対してある種の親しみの情を芽生えさせていきます。

やがて月の篝は「命の理論」を何とか形にするものの、それは生命が存続できるかについては結局「不確定」という弱々しい理論でした。しかし彼女にとってはそれが限界でした。彼女が導き出した精一杯の成果に、天王寺瑚太朗はふと軽い気持ちでコメントを残すことを思いつき、本質に影響しないようにすみっこのほうに「いつかまた君と会いたい」と書くのですが、月の篝がこれをもとに理論を再構築すると、はたして不確定だった一本の道が無数の枝となって未来へと広がり、生命存続の方法論がとうとう完成へと至ったのです。そうして天王寺瑚太朗は、生命に残されたその唯一の道を実践するために月を去る決意をします。月の篝に別れを告げ、月から地球へ命の回廊を渡り、死の星となった地球が再び生命の光に包まれるところでMoonの章は終わりを迎えます。そしてその後、億年にわたる過酷な淘汰と進化の先で再びヒトにたどり着き、天王寺瑚太朗という自我が生まれるところから最終章「Terra」が始まるのです。

最終章のTerraでは物語前半と同じ緑化都市や学園を舞台とし、同じ登場人物の顔ぶれでありながらも、どこか根本的に違った物語が展開されます。天王寺瑚太朗には月世界での記憶はもはや残ってはいませんが、かつて命の理論に刻んだ「いつか君に会いたい」という感情の篝火だけは強く残っており、それが彼の進むべき唯一の道を照らしてくれます。(これは実際、ゲームにおいては各所に選択肢が出現するのですが、この最終章だけは正解の選択肢の横にかならず篝火のようなものが灯っているので、プレイヤーは主人公と同様に迷うことなく進んでいけるという作品形式上の粋な演出が存在します。)こうして彼はガイア主義者、ガーディアン、ドルイドのどの陣営にも傾倒することなく、ただ自らの心の篝火が示す道を貫く独立した強固な人間として、自らの書き換え能力を全力で駆使して戦い抜けます。やがてこの世界においても「滅び」が始まり、天変地異が次々と生じていく中で、天王寺瑚太朗は諦めずに自らの道を進み、そしてとうとう地球の篝へとたどり着きます。その究極の状況において天王寺瑚太朗が最後の最後にとった涙ながらの行動は、「地球の篝を刺し殺す」ということでした。

「篝の望んだ最良の記憶…それは未来を切り開くための、力と意志ではなかったか。人類が諦めかけたもの。星を大事にしようとするあまり、人々が見失いかけていたもの。たとえ母なるこの星を食いつぶしても、なんとしても。俺たちは、広がっていかねばならないのだと。」

遠い旅の果てにたどり着いたこの覚悟を、天王寺瑚太朗は人類の代表として地球の篝に示したのです。そして刺された篝は、まるで我が子を見送る母親のような表情で、穏やかに「お見事」とほほえんで消えてゆきます。一方の天王寺瑚太朗も、リライト能力を極限まで使ってしまったために樹木となってしまいます。しかし彼の選択のおかげでかろうじて滅びを免れて、光を取り戻しつつある世界の中で、「もしもいつか、空に辿り着く者あらば、月にいる少女のことを、見つけてやって欲しい。たったひとりで、うずくまっている彼女のもとへ、立ち寄ってみて欲しい。」という声がどこからともなく響き渡り、その余韻とともに物語は幕を閉じるのです。

さてこのように振り返ってみると、既存の枠組には属さず、たえず自らを超克することで我が道を貫いた最終章の主人公の姿は、まさしくニーチェの超人思想の体現であると言えますが、着目すべきはやはり彼の内なる衝動を生みだし続けた篝火の存在であり、それは元をたどれば月面世界で彼が魂に刻みつけた、月の篝という他者を志向する感情であったということです。「自己」の地球に対して「他者」の月という、宇宙空間に向けた彼我の投影となっている点も作品の妙味ではありますが、何より天王寺瑚太朗のもつ感情こそが彼という一人の人間の強固な生き様の礎となり、それが「俺たちは何としても広がっていかねばならない」という人類繁栄の意志を思い出す結末へと深く結びつくことこそ、田中ロミオがこの作品に込めた最も象徴的なメッセージであるように思われます。すなわち、『Rewrite』の主題をニーチェの思想という切り口に沿って述べるならば、あるいは逆にニーチェの思想を『Rewrite』の主題という切り口に沿って述べるならば、以下のようになるのではないかと僕は考えます。「どんな他者愛的な行動も、それは結局は自己愛的なものであることを否定できない。しかし、それで良いのである。その基本を見失ってしまってはならないのだ。我々人類にとって必要なことは、利他さえも含んだ利己をこそ、全身全霊をもって肯定するということなのだ」と。

序盤では環境問題をテーマに据えた作品と思わせておいて、最終的には地球を犠牲にしてでも人類の繁栄を全肯定するという主題転換のダイナミズムには、「これはまた田中ロミオに一本取られた!」と感嘆の声を上げたプレイヤーも多かったのではないかと思います。しかしその点もさることながら、篝という星の化身や、生命力の権化たる数々の魔物といったファンタジー要素も貪欲に取り入れつつ、一方では進化論にもとづく何十億年もの生命淘汰の歴史、および“地球と月”という宇宙における彼我の象徴にも目を向けることで、時間的・空間的に壮大に広がるスペクタクルを見事に描きあげた作品であり、さらにその中で自己精神の内省というミクロな視点から、人類史の収束と繁栄というマクロな視点までを巧みに切り換え、交差させ、そして最後にはそれらを融合することで、ニーチェの超人思想を、田中ロミオ自身の課題である「自己vs他者」の新たな地平として昇華せしめたこの『Rewrite』こそ、まさしく美少女ゲームにおいて達成された哲学と文学との邂逅であり、現代思想が生んだ物語芸術の極致として語り継がれていくべき傑作であろうと確信します。




(7)情熱と苦悩によって彩られたニーチェの思索の魅力

以上、『Rewrite』とニーチェ思想の比較を論じてきましたが、今回の考察の冒頭で『Rewrite』もニーチェも本質は“圧倒的な生の肯定”であると述べたとき、おそらく誰もが「では好き放題に環境破壊を進めるのが正しいのか」、あるいは「自分のわがままで周囲に迷惑をかけることをも肯定するのか」といった反発心を抱いたのではないかと思いますが、ここまで読んでいただければ、必ずしもそういう主張ではないということが何となく伝わったのではないかと期待します。『Rewrite』もニーチェも「自分勝手に生きろ」と言ってるのではなく、「自己本位に生きろ」と言いたいのです。語のニュアンスを変えただけではないかと非難されるかもしれませんが、この表現の差が決して小さなものではないということを、どうか感じ取っていただければと思います。

ただしニーチェに関しては、この「自己本位」というのが比較的広い範囲を持っているという印象を受けます。つまり我々から見るとかなり「自分勝手」側かなと思う行動についても、その必要性を説いている節がありますし、実際に彼の著作の細かな言い回しを見るにつけても、どうも彼は国家、社会、文化といったものを否定的に捉える傾向があるのは事実です。しかしそれをもって「ニーチェは反社会的な思想を持ったアブナイ人なのだ」と判断して遠ざけるのはやはり誤りであって、まず彼が生きた19世紀の西洋においては社会や文化のあらゆる場面にキリスト教的価値観が浸透していたことを考慮した上で、宗教をはじめとする人間の思考停止状態を極力まで排除しようと試みた、彼の真摯な哲学的態度の現れだと捉えるべきではないかと僕は考えます。たとえるならばニーチェは「自分にも他人にも厳しい職人気質の親父さん」のようなイメージであり、要するに妥協を許さず徹底的に哲学を実践した思想家だったということです。

今回、僕は『Rewrite』という作品に沿う形でニーチェの思想を自分なりの言葉で記述してみたわけですが、おそらくニーチェについて詳しい人や彼の著作を読み込んだ人にとっては、「このニーチェは甘い!甘すぎる!」「本物のニーチェの厳しさはこんなものじゃないぞ!」という感想になるのではないかと予想しています。僕は超人の生き様をわかりやすく表現するために“信念”という言葉を用いましたが、実のところニーチェ本人はこの“信念”さえも猛烈に批判しています。彼が発した言葉の中には以下のようなものがあります。

「信念は、真実にとって嘘よりも危険な敵である。」

「脱皮できない蛇は滅びる。その意見をとりかえていくことを妨げられた精神も同様だ。」

おそらくこの文における“信念”は、特に宗教的なバックボーンを有するものを意識した表現だと思われるので、僕が超人について説明するために用いた“信念”とは一応の別物と捉えることはできます。しかしながらそれを差し引いてもなお、ニーチェは神や宗教が関係しているかどうかに関わらず、人間がある一つの考えに固定されること自体を激しく嫌悪し、それを思考停止という名の怠惰であると考えていたようでもあります。したがって彼が思うところの最も理想的な超人とは、強固な信念を持ちつつも、その信念を常に今現在の状況に合わせてより良い方向へと更新していける存在、言いかえるならば自らの手で自らの信念を“書き換え”ることができる人間なのです。(『Rewrite』のタイトルは、単純に主人公の特殊能力や生物進化の比喩だけにとどまらず、ニーチェの超人思想におけるこの点をも示唆するものだったのかもしれません)

ニーチェに関してここで触れておきたいこととして、彼の著作は哲学書であるにもかかわらず、アフォリズムと呼ばれる一種の格言のような抽象表現が多用され、有名な『ツァラトゥストラはかく語りき』に至っては半ば小説のような物語形式で思想が婉曲的に提示されるなど、つまりは非常に「わかりにくい」ということがまず言えます。さらには彼の思想自体も不変ではなく、むしろ時を経るごとに変化している部分が少なくないことも相まって、我々にとってニーチェの思索の全容を正確にとらえることは相当に難儀な作業だと言わざるを得ません。しかもその上さらに厄介なのは、彼の著作にある言葉尻だけを抜き出してきて解釈しようと思っても、その言葉尻どうしが矛盾していて余計にわからなくなってしまうことがままあるということです。しかし裏を返せば、彼がそれだけ細部にわたるまで「ああでもない」「こうでもない」と試行錯誤を展開し、中途半端なごまかしを許さなかったことの何よりの証拠でもあります。

スワヒリ語のことわざに「道に迷うことは、道を知ることだ」という味わい深い言葉があるそうですが、僕は古今東西の思想家の中で、ニーチェほどこの一節に当てはまる者はいないと思っています。過去の先人が立てた道しるべに従うほうが明らかに効率的であるのに、彼はそんなものには見向きもせず、自分がこうだと思った道を歩んでは行き止まり、また別の道を歩んでは行き止まりを繰り返したのです。ニーチェは「芸術は爆発だ!」を哲学でやろうとした人でしたし、小綺麗な合理主義を何より嫌って「考えるな、感じるんだ!」というようなことを主張しながら、しかし一方では「思考停止は甘えだ。とことんまで考えて考え抜け」と言い切ってしまう人でもありました。この一連の思想をあえて辻褄が合うように一言に集約するならば「感情が示す方向へと思考を積み重ねよ」という風になるでしょうし、今回『Rewrite』に沿って僕が行った考察も、まさしくその結論へと帰着する形にまとめることができたと思います。しかしながら、そのように端的に表現することで、思想の持つ本来の奥行きが損なわれてしまっている点に留意しておく必要があります。もちろんそれはどんな哲学者についても言えることですが、ニーチェにおいては特にそれが顕著であり、むしろ彼の思想は、愚直なまでの哲学的態度の軌跡たるその奥行きにこそ、最大の魅力があると言っても過言ではないのです。精神分析学あるいは心理学の分野でおそらく最も有名な偉人であろうジグムント=フロイト博士は、次のように述べたとされています。「ニーチェによって達せられた内省の深さにまで到達した人間はひとりとしていない」と。(フロイトが精神分析の手法によってようやく発見した「超自我」と同等の概念を、ニーチェは自己の内省のみによって既に見出していたと指摘する学者もいます。)

いついかなるときも全力で道に迷い続けたからこそ、迷い込んだ先々の風景の全てが、ニーチェの哲学に対して独特の豊かさを与えているとも言えるのです。ゆえに彼の著作を一文一文、彼がそれを著した態度と同じく“愚直”に、じっくりと読み進めていくことによって初めてわかる面白さが、ニーチェの思想の中にはたくさん眠っているのだということを、ここに書き添えておきたいと思います。




(8)ニーチェの超人思想と日本人の武士道

さて、ニーチェ哲学の内容そのものについてはここまで述べてきた通りですが、現代を生きる我々がそれを具体的にどのように評価し、どう受けとめるべきかを考えるにあたって、必ず押さえておくべき論点ではないかと僕自身が考えているものが一つ存在します。それは我々“日本人”の道徳観念と、ニーチェの超人思想との類似性についてです。今回、僕はニーチェの説く「超人」という生き方についていくつかの例を交えつつ解釈してきたわけですが、これを読みながら正直、「これって何か特別なことなのか?」「当たり前のことを言っているだけじゃないのか?」などと感じ取った人は少なくないのではないかと思います。もちろん自分の信念がどうこうというところまで意識して生きている人はまれだと思いますが、誰も見ていないところでも悪事を働かないのは、日本人にとっては「天罰がおそろしいから」や「地獄に落ちたくないから」という超常的な理由よりも、「人としてそれが当たり前だから」という言葉のほうがしっくり来るのではないでしょうか。つまり「あの世ではなくこの世で物事を考えろ」というニーチェの指摘は、日本人にとってはむしろ身近な考え方であり、「そりゃそうだね」という薄い反応しか返ってこない可能性すらあるわけです。しかしながら実際にはニーチェの思想は「そりゃそうだね」どころか、宗教を自らの根幹にすえる世界の人々の常識を揺るがすものであって、哲学界においてもある種の異端という位置づけであるがゆえに“反哲学”の一人に数えられてしまうことが多いということは、先にも述べたとおりです。

1882年、ニーチェが彼の著作『悦ばしき知識』において「神は死んだ」と述べた当時も、西洋人の多くが「神や宗教なくして社会のモラルを保てるわけがない」と考え、「反宗教的ということはすなわち反社会的な危険思想に違いない」という誤解をも生んでしまいました。一方で、奇しくもそれとちょうど同じ時代に、極東のとある小さな島国が200年以上続けてきた鎖国を解除し、国際社会に名乗りを上げました。どれほど時代遅れな文化が姿を現すかと好奇の視線を向けた欧米人にとって、その島国の実態は予想以上に冷やかしがいがあったに違いありません。なにしろ蒸気機関をはじめとする科学技術はおろか、憲法や議会政治といった国家体制も整っておらず、挙げ句の果てには“宗教”にあたる言葉すら持っていない国だったのですから。(日本語の“宗教”は幕末にreligionの訳として急遽つくられた言葉です。)

ニーチェを含む当時の西洋哲学者のほとんどは、極東の小国のことなどそもそも興味はなかったでしょうし、もし仮に知っていたとしても「宗教という概念すら無いほどの未開の民族」という印象しか持ち得ず、近代哲学の対象とするには論外という扱いになっていたのではないかと思います。しかしその“宗教を持たない国”日本は、明治維新後に急速な発展を遂げ、バルチック艦隊を有する大国ロシアにも歴史的な勝利を収めて、ついには列強の一角に名を連ねるまでに至りました。たしかに日本は科学技術や政治体制では遅れをとったものの、他国の優れた部分を学習し応用できる確固たる土壌を持っていたこと、すなわち精神面においては西洋にも決して引けを取らないほど成熟した文化を築き上げていたことを証明してみせたのです。そして“宗教意識が低い”のは、決して日本人が未開であるからではなく、宗教の代わりとなる「ある道徳観念」を日本人は心の奥底に持っており、それは国家の長い歴史の中で日本人が自らの手で磨き上げてきた一つの合理的なスタイルなのだと海外に向けて説明した書物こそが、新渡戸稲造の『武士道』です。

超人思想の説明の際に用いた「強盗殺人の例」を、ここでもう一度考えてみます。もしも江戸時代の誇り高きサムライが、大金を持った無防備な人間と遭遇したら、彼はどのように振る舞うでしょうか。おそらく「法的にも、社会的にも、また神仏からも咎められることはない」と太鼓判を押されていたとしても、サムライは決してその金持ちを殺して金を奪うなどという行動には出ないでしょう。そしてその理由を彼に問えば、きっとこう返ってきます。「武士の名にかけて、そんな卑怯な真似はできない」と。彼は刑罰を恐れているのでもなければ、天罰を避けようとしているのでもありません。神を含めてたとえ誰一人その場を見ていなかったとしても、他ならぬ自分だけは自分の行動を知っている。だからこそ己の武士道に反するようなことはできないと、そう考えるのです。そしてこの姿勢は、まさしくニーチェの思想における超人の生き様と非常によく重なりあうように思えます。何より特筆すべきは、武士道は“固定されていない”、つまり明確な経典や聖典などを持たず、各人それぞれの心の中で常に「自分はどうあるべきか」が議論され、時代や状況に応じて常に形を変え続けていくという性質です。この“書き換え可能”な信念こそ、ニーチェが思い描いていた理想の道徳観念ではないでしょうか。

もしもニーチェがあと少し長生きして日本という国を知り、新渡戸稲造の『武士道』を読んでいたなら、どのような興味深い感想を述べたでしょうか。そう考えると、彼が56歳という若さで亡くなったことがよりいっそう悔やまれます。ただ逆に、新渡戸のほうは『武士道』の中で彼の思想について少しだけ触れており、「ニーチェのいわゆる専制的な自我中心の道徳律は、ある点においては武士道に近いものがある」と述べています。しかしながらその直後にニーチェの考え方を「病的なゆがみ」とも評しているあたり、両者を完全に合致するものとは捉えていなかったようです。(これは新渡戸自身が敬虔なキリスト教徒であったために、神を否定するニーチェ思想に対して一定の抵抗感を抱いていたとも解釈できますし、また何より、キリスト教が大勢を占める海外に向けて日本の精神文化を紹介するにあたって、必要以上に武士道とニーチェとの類似性を強調することは得策ではないとする配慮もあったのはないかと推察されます。)

また、武士道には可変性があると言っても根本的な部分はある程度固まってしまっているのが実情であり、特にその一つである「己の身を犠牲にしてでも全体に貢献する」という理念は、ニーチェ本人が聞けばきっと苦虫を噛みつぶしたような表情をするに違いありません。もし江戸時代の日本をニーチェが訪れていたら、いざ切腹に臨まんとする武士を見つけては、彼のもとにずんずんと近づいていって、「お前は本当にそれで幸せだと言えるのか?」「自ら腹を切るのが常識だからと思考停止してはいないか?」「生きのびて何かを為したほうが社会のためになるという可能性をちゃんと吟味したのか?」と、しつこく詰問することでしょう。しかし一方で、もしその武士が、それら全ての問いに心から晴れやかな顔で「はい」と答えてみせたならば、「わかった。見事な信念だ」と認めてくれるのもニーチェではないかと僕は思っているのです。




(9)おわりに - 本当に神は死んだのか

わが国における武士道はその非固定性ゆえに、武士の世が終わり、たとえ“武士道”という言葉を誰も使わなくなったとしても、その根本精神は日本人の心中に目に見えない形で生き続けるだろうと新渡戸は予言していました。『武士道』の刊行から100年あまりが経過した今、その予想は概ね正しかったと言って良いのではないかと思います。最もわかりやすい例としては、やはり国内の治安の良さが挙げられるでしょう。戦国時代の宣教師も、明治時代の西洋人学者も、そして現代の外国人旅行者も皆が口を揃えて日記に書いているのは、「詐欺やスリが少ない」「落とした財布が戻ってくる」「女性が安全に出歩ける」という驚きであり、些細なことではありますが、今も昔も日本人の本質が変わっていないことの一つの証左だと言えるのではないでしょうか。ちなみにもう一点、外国人が著したどの時代の日本旅行記にも散見されるのは「清潔好き」という指摘であり、これも現代日本のトイレの(他国の追随を許さぬ)圧倒的なウォッシュレット普及率を鑑みると十分に頷けます。そして、あえてこれと絡めて論じるならば、「日本人は物理的にも精神的にもキレイ好き」だと言えるのかもしれません。他者の者を盗むことによって得られる利益がどれほど大きくても、悪事を働くことで自分の生き様に傷が付いてしまうことをまず何よりも嫌がる節があるように感じます。そういった心理面での「汚れ」をも排除して心身ともに清潔さにこだわろうとする日本人の特性には、やはり少なからず武士道の片鱗を見てとれるような気がするのです。

しかし、では現代の日本人は自分なりの武士道をそれぞれの胸中にしっかりと持ち、常にその誇りにもとらぬよう清く正しく日々を生きている気高き民族なのかと言えば、当然ながらそれは大仰に過ぎます。たとえ江戸時代であっても、そのような崇高な態度を実践できた武士などは全体のごく一部であったに違いありません。ニーチェの超人思想がそうであるのと同様に、武士道もまた理想論としての色合いが濃く、実際には日本においてもまた刑罰や天罰といった抑止力の存在が、社会秩序の安定に大きく寄与してきたのは紛れもない事実でしょう。

先ほどは日本は“宗教を持たない国”という体で議論を進めましたが、実のところ日本人は決して無宗教ではありません。キリスト教をはじめ特定の宗教をあつく信奉している日本人は言うまでもありませんが、そもそも日本には固有の信仰である神道と、渡来人によって伝えられて根付いた仏教があります。たしかに普段の生活でそれらを意識することはほとんど無いに等しいものの、古来より雄大な自然の恩恵と脅威とを肌で感じ、身近なものとして受け入れてきた日本人にとって、それらの権化たる神仏への畏敬の念は、一定の戒律や儀式と言った形よりもずっと直観的なものとして日常生活の行動のすみずみにまで浸透しているのです。

その証拠に、たとえば自分自身が誰にもバレないような状況で何らかの悪事をはたらこうとしている場面を仮定したとき、良心の呵責がどのような心の声となって聞こえてくるかを分析してみてください。前述したような「自身の信念に反する」という声以外にも、「誰も見ていなくてもお天道様が見ている」「あの世でご先祖様に顔向けできない」といった超常的な思考や、「悪いことをすればいずれ自分に返ってくる」「こんなことをしたらバチが当たる」といった非科学的な因果応報論を主張する声が、少なからず混じっているのを感じるのではないでしょうか。我々日本人は、そういった声を全てひっくるめて「道徳的にそんなことはできない。人として当たり前のことだ」という結論を下しているのです。言ってみれば誰も自分の手帳の予定欄に「空気を吸う」などと書かないのと同じで、日本人にとって宗教とは“あえて形式を与えるなんてわざとらしい”と思うほどに自然なものと化しているのです。ある意味ではイエス=キリストが説いた「形よりも心を大事にしなさい」という理念を究極的に実践してきたと言えるのかもしれません。それゆえに、ニーチェにとっては、この日本独特の宗教観はかなり扱いに困るのではないかと思います。

どこぞの大学生が「ニーチェはマジで神!」という斬新な褒め方をしたという笑い話がありますが、意外にこれは日本人の本質を突いているようにも感じます。「神は死んだ」と主張するニーチェを正面から受け入れ、素直に評価できるほどに日本人の宗教意識は武士道思想と一体化し、もはや完全に現実的な道徳観念へと還元されているにも関わらず、しかしながら一方では、八百万の神々よろしく、世の中の優れたもの、美しいものをはじめ様々な事物の中に神性を見いだすという精神を、我々はしたたかに持ち続けているのです。前者のみならばニーチェの超人思想に限りなく近いものとなりますが、後者も併せて考えると、神仏や霊魂といった非現実的な概念に頼ることを嫌悪するニーチェにとっては、やはり批判の対象とならざるを得ないでしょう。

では、ニーチェの批判に従って日本人の根底に残っている神仏思想を完全に排除するのが正しいのかと言えば、僕は決してそうは思いません。ニーチェは、ありもしない“あの世”ばかり夢想して、今目の前にある“この世”をないがしろにするのはおかしいではないか、と指摘したわけで、それはこれから先も人類が決して忘れてはいけない重大な観点だと思います。しかし、かといって“この世”だけをひたすら見つめて一時も目をそらさないという生き方では、それはそれで息が詰まってしまうのもまた、人間という生き物なのではないでしょうか。日本を含めて世界のあらゆる宗教には、たしかにニーチェが主張する問題点が多く存在しますが、その一方で、やはり人間にとって本質的に大切な要素が含まれているからこそ、宗教は実際にここまで広がって発展してきたのではないかと思うのです。僕が好きなライトノベル作家・杉井光さんの作品『神様のメモ帳』の中に、次のような一節があります。

「理論が百年かかって橋頭堡を築いてようやくたどり着く地に、信仰の翼は一夜にして至る。」

これに対してニーチェならば、「甘えるな。たとえ何年かかっても、橋頭堡を一から築いて、自分の足でたどりつけ」と喝を入れるでしょう。彼のその言葉は、人間に内在する無限の可能性と強い意志力を思い起こさせてくれる貴い思想です。しかしながら人は、そこまで理想的な超人にはなりきれないというのもまた事実なのです。この世に生きる人間は皆、心が弱い。だからこそ宗教を信じてしまうのです。でも、それは我々が本当に克服しなければならない弱さなのでしょうか。

人は誰もが「死んだ後はどうなるのか」と想いを馳せ、今のこの生が終われば全てが終わりなどという寂しいことはあってほしくないと願います。自分の大切な人が亡くなったら、そのお墓に花を添えたくなるのが人間なのです。その行為に科学的な意味はなく、あくまで生者側の心を慰める自己満足的な行動でしかないと頭の中でわかっていても、この空のどこかからその人の魂が見守ってくれていて、供えた花の美しさに安らかな微笑みを浮かべてくれているのではないかと願わずにはいられないのが人間なのです。それはこの先、どれだけ科学や哲学が発展しようとも、人が人であるかぎり決して失ってはいけない「心の弱さ」ではないかと思います。




■ 参考作品/文献

・「Rewrite」(Key、2011年)
・「世界文学大系42 ニーチェ」(筑摩書房、1960年)
・「道徳の系譜」(Friedrich Nietzsche著、木場深定訳、岩波文庫、1964年)
・「哲学大図鑑」(Will Buckingham著、小須田健訳、三省堂、2012年)
・「武士道」(新渡戸稲造著、岬龍一郎訳、PHP文庫、2005年)
・「神様のメモ帳 2」(杉井光、電撃文庫、2007年)


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