語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2018-08

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[2017-06-07]  獣とは何か  

おそらく今年最大の話題アニメであろう「けものフレンズ」の放映が終了してから、早くも2ヶ月が経とうとしているが、現在進行形で全国各地の動物園をはじめとするコラボイベントやグッズ販売など、新しい企画が次々と繰り出されており、いわゆる“けもフレ”ブームはまだまだ収束の気配を見せていない。

どうして「けものフレンズ」がここまでの人気作品となりえたのか、ということに関しては様々な人が様々な推測を述べている。というのも、近年で爆発的ヒットを巻き起こした他のアニメ作品群とは明らかに毛色が異なっているのだ。

例えば「魔法少女まどか☆マギカ」は3話の時点で味方の魔法少女が惨殺される衝撃シーンがあり、そこで一気に注目を集めた。その後も“魔法少女という表題を掲げておきながら主人公が魔法少女にならない”という意外性が視聴者たちの興味を引く大きな要素となった。

「ラブライブ!」はどうだろう。個人的には脚本構成に魅力を感じたが、世間における人気は別のトリガーがあったように感じられる。それはアプリの存在だ。「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル」というスマホ向けのゲームアプリの質が高く、社会人や大学生のみならず中高生にまで多くのユーザーを獲得した。このアプリがある種の強力な宣伝材料となり、アニメにも大量の視聴者を呼び込むことに成功した。

昨年の社会現象となった「君の名は。」はどうか。このヒットについても様々な分析がなされているが、この作品にはまず“美麗な背景美術”という最大級の強みがあった。新海氏の描く背景のクオリティの高さはアニメ界隈でも随一であるし、視覚的な魅力というのは短時間で多数の人に広がる際に優れたアドバンテージを発揮する。ゆえに一度火が付けば、普段アニメを見ない層にも浸透する力を十分に秘めていたと言えよう。

しかし、「けものフレンズ」にはこうしたヒットを呼ぶ要素が全く見受けられなかったのだ。

残酷なシーンがあったわけでも、意外な展開があったわけでもない。動物たちが暮らすほのぼのした世界観の中で繰り広げられるのは、むしろ極めて王道といえる冒険モノだ。アニメより先にゲームアプリが存在したが、ほとんど話題になることはなく、それどころか人気が無さすぎてアニメ放映前にサービスが完全終了してしまうという、商業的には絶望と言える状況でのアニメ開始だった。さらにはビジュアル面に関しても、今でこそ「味がある」などと評されるが、文字通りの低予算アニメということで当初はCGの粗さが目立ち、貴重なファンであったアプリユーザーでさえ「下手にアニメ化するくらいなら作らないでくれ」と非難するほどだったという。

ニコニコでも第一話放映時でのアンケートは「とても良かった=41.3%」という悪い意味で歴史的な数字を叩き出し、視聴者たちから完全に見放されてしまったかに思われた。

……ところが、3ヶ月後に我々は信じられない光景を目にすることとなる。

けもフレ最終話のニコニコ生放送アンケートで、「とても良かった=98.3%」という良い意味で歴史的な記録を達成してしまったのである。来場者数は第一話で2万人だったものが、最終話で20万人にまで膨れ上がり、前代未聞の事態にニコニコ動画のサーバーが負荷のあまり一時的に不調をきたしたほどだ。

ちなみに、全話放映後の一挙放送でも観測史上最高のコメント数を記録したのである。

【コメント数歴代ランキング】
1位 2017年 4,186,730 けものフレンズ
2位 2011年 1,899,936 魔法少女まどか☆マギカ
3位 2014年 1,524,048 ラブライブ!2期
4位 2011年 1,489,931 らき☆すた
5位 2011年 1,407,144 化物語


ランキングにも表れているように、そもそもニコニコ動画の全盛期が2011年前後にあり、アクティブユーザ数はここ数年減少傾向にあると言われていた。そういった状況下でここまで圧倒的な数字を叩き出してしまったのだから、はっきり言って尋常ではない。

「たまたまヒットした」とか「時運の流れにうまく乗った」といったレベルではないことは明らかだ。むしろ先述したように、時運の流れは完全に逆だった。それら全てをはねのけ、第一話時点での最低レベルの印象を180度ひっくり返してしまうだけの確固とした魅力が、この作品にはあるはずなのだ。

だが奇妙なことに、その魅力の正体が何であるのか、誰もそれを精確にピタリと言い当てることができない。世の中に数多いるアニメ制作者たちも、作品批評家たちも、さらに言えば視聴者たち本人でさえも、けものフレンズという作品の魅力をうまく言語化できないのだ。

「面白くて何度も見てしまう。なのに何が面白いのか、どうして面白いのかが、自分でもまったくわからない。」

ネットのSNSや掲示板でもこうした声が大量に散見される。多くの人が首をかしげながら「けものフレンズはおそらくここの要素が大衆の琴線に触れたのだろう」という推測を提示し、一応どれも間違いではないように感じるのだが、どこか腑に落ちず、仮にその要素を真似して別のアニメを作ったとしても傑作になるようには思えない。そういった不思議な状態のまま、今のけもフレブームは継続しているのだ。

しかし、そんなけもフレの本質をたった一文でうまく例えている、と納得してしまったのが、以下のsakifox氏のツイートだ。


そう、まさしく「けものフレンズ」は“完成度の高いケチャップオムライス”なのだ。

見た目は何の変哲もない、昔からある普通のオムライス。「うちのオムライスは他とは違ってこういう変わったトッピングをしています。意外でしょう? 驚いたでしょう?」といった主張や宣伝をまったくしない。その代わりに、基本に忠実なオムライスを基本に忠実な調理法で丁寧に作り上げる。

材料もいたずらに高級なものを揃えるわけではない。限られた予算の中で、日常的な素材をどう料理すれば美味しくなるかという工夫を凝らす。実際、けものフレンズのCGは低予算ゆえの荒さは確かにあるのだが、細かい表情の表現が巧みであったり、またキャラクターの何気ない所作が実は動物の動きを再現するものであったりなど、随所随所に並々ならぬこだわりを感じるのだ。料理における火加減や調味料は、アニメにおける間の取り方や台詞の機微に相当しそうだが、そういった目に見えない要素一つ一つに作り手の全力が込められていて、その結果、全体として非常に美味しいオムライスができあがっている。

だからこそ我々はその味に感動する一方で、感動の理由を言語化できなくて戸惑う。「特製ソースを使っているから人気が出た」とか「○○産の最高級たまねぎを使用しているから美味しい」といった、わかりやすい説明に還元することができない。「炒める時間に工夫があるのだろう」や「調味料の分量が絶妙なのだろう」といった個々の指摘も、たとえ部分的には正しく言い当てていても、その一項を意識するだけで美味しい料理が作れるような秘技は存在しない。一つ一つは些細な工夫なのだ。しかしそれらすべてを丁寧に積み重ねたとき、何ら奇抜なことはしていないのに、「あっ」と驚くような素晴らしい料理が目の前に姿を現す。「けものフレンズ」はまさにそういう作品だったのではないだろうか。

ただ、そのことを踏まえたうえで、けものフレンズにはさらに一歩前に抜きんでる先進性があった、と僕は考える。

基本に忠実であることと、革新的な試みをすること。この二つは相反するようでいて、実は同時に成立する瞬間がある。殊に芸術的な分野においては、この両極が一致した境地にこそ真の意味での発展が見出されるのだ。茶の湯の大家である千利休の言葉に「守・破・離」がある。これは単純に「最初は師から教わった既存の型を守り、次にその型を破り、そこから離れて自由自在にふるまえるようになって一人前」ということを言っているのではない。「守・破・離」の語源となった千利休の和歌は、実は以下のように綴られている。

「規矩作法 守りつくして 破るとも 離るるとても 本を忘るな」

師匠から叩きこまれた基本の型をやがて乗り越えていくときも、その基本を決して忘れてはいけない、と千利休は言っているのである。守・破・離は修得段階を個別に分離する概念ではなく、むしろそれらを一本の線で貫くものを自分の中に見いだせたとき、すなわち「基本を守りながら基本を離れる」という矛盾が矛盾でなくなったとき、茶の道は本当の意味で拓けていく、という教訓なのだ。

そして「けものフレンズ」もまた、基本に忠実なオムライスでありながら、しかし今までのオムライスにはない新しい挑戦をその内に秘めている。そして、それは他ならぬシナリオの中に見ることができるのだ。

けもフレはシナリオが深い、と評価する声自体はしばしば耳にする。その理由はだいたい次のようなものだ。動物をテーマにした作品で陥りがちなのが、動物を上げて人間を下げる風潮、つまり「動物はこんなに純粋で可愛いのに、人間は動物を自らの都合で殺して生態系を破壊する悪者だ」といった思想だが、けものフレンズはそうではない。人間と動物とをしっかり区別して描きながら、その関係はあくまで対等であり、人間の不得手なことは動物からの助けを借り、一方で人間は、その長所である知能を動物たちの悩みを解決するために遺憾なく発揮する。「動物が良いから人間は悪い」でもなければ、「人間は優れていて動物は劣っている」でもない。「動物は素晴らしい、そして人間も素晴らしい」なのである。動物に焦点を当てた「けものフレンズ」を通して、我々はいつのまにか人間という存在を真摯に見つめており、そしてその眼差しは自然と建設的な意識で満ちている。動物賛歌であるがゆえに人間賛歌となる、これこそがけもフレの魅力だ、と。

こういった意見はある程度は的を捉えていると思う。だが、正中を射抜いてはいない。けもフレのシナリオの魅力を論じるにあたって、これだけでは不完全なのだ。

「けものフレンズ」アニメのシナリオには、極めて重要なアクセントが一つ用意されている。それは“ラッキービースト”(通称:ボス)と呼ばれるキャラクターの存在だ。猫とも狸ともとれぬ独特の可愛らしい姿で現れ、無機質な機械音声で主人公たちを案内する彼の存在は、作品世界を取り巻く大きな謎の一つだった。しかも彼が話しかけるのは人間である主人公=かばんに対してのみで、相方のサーバルをはじめ動物たちには一切口を利かないという点で不穏さを醸し出している。話の筋としては、記憶喪失で自分が何の動物かわからない主人公=かばん(視聴者からは人間だという予想が容易につくのだが)と、サーバルキャットのサーバルが二人で協力し合いながらパーク各地を旅して、かばんの正体に関する情報を集めていく、という物語だが、そこに案内役としてラッキービーストが加わり、しかも彼は何故かかばんにのみ反応する、というある種いびつな関係のまま、様々な地方での冒険譚が繰り広げられていく。

結末が近づくにつれて、かばんが人間であること、他の人間がすでにパーク内に存在しないこと、そしてラッキービーストがかつて人間を案内・保護するために作られたロボットであることが判明してくる。人間が消えた後のパークにおいてもラッキービーストは環境整備のため働き続け、動物に対しては“じゃぱりまん”という食料を無償で配給する役目を負っていた。動物たちがラッキービーストのことをボスと呼ぶのはこのためである。(動物は食べ物を与えてくれる存在を自分より上位だと捉える。)ただし、ラッキービーストは生態系維持の原則に基づいて、動物に対して話しかける等の干渉行為は禁じられていたのだった。

しかし、最終話においてかばんの身に危機が迫り、サーバルが彼女の救出を検討する段になって、ラッキービーストは初めてサーバルに話しかけるのだ。彼は「人間の緊急事態対応時のみ干渉が許可されている」と説明し、かばん救出作戦の最後の詰めを自分自身が引き受けることを提案する。そうして作戦決行のため二手に分かれる瞬間に、こう言い残すのだ。「サーバル。三人デノ旅、楽シカッタヨ。」と。

かばんの危機を伝え聞き、今まで出会ったすべての動物たちが駆けつけて一致団結するシーンが、最終話の一番の盛り上がりとなるが、本当の見どころはむしろその後にある。かばんを食らっていた敵(セルリアン)を完全に排除するために、ラッキービーストが船とともに海中に沈んでいくのである。かばんを救出し、人間と動物にとっての脅威を退ける作戦は、ラッキービーストのこの自己犠牲行為によって完遂されたのだ。

ただしその後、かばんとサーバルによる捜索により、ラッキービーストの生存が確認され、物語は大団円を迎える。皆で力を合わせて危機を乗り越え、誰一人欠けることなくハッピーエンドに至る、という流れはまさしく基本に忠実なオムライスだと言える。だが、僕はこの最終話を見たとき、安堵と同時に衝撃を覚えた。

「けものフレンズ」というタイトルを見て、我々が通常予想するのはどんな物語だろう。まず思いつくのは、「動物たちが仲良く過ごす物語」というイメージだ。しかし先述したように、この作品はそうではない。動物だけでなく人間をしっかりと描くのだ。だからこの作品は「動物と人間が互いに力を合わせる物語」なのだと、視聴者は気づかされていく。ところが、である。物語の最後の最後に、かばん救出作戦に最大の貢献をし、身を挺してパークの危機を救ったのは、動物でも人間でもない、機械であるはずのラッキービーストだった。

最終話の直前まで、我々視聴者はこの物語を「かばんとサーバルの二人の旅」だとしか思っていなかった。ラッキービーストはあくまで案内役のロボットにすぎないという意識がどこかにあった。しかし、最終話のクライマックスにおいて我々はハッとさせられる。ラッキービーストの「三人での旅」という言葉はとても深い。これは彼がサーバルを人間同様に“一人”と数えているということであり、規則上無視せざるを得なかった動物に対しても親愛の情を抱いていたことを示唆する重要な台詞であるが、それに加えて、機械である彼自身もまた“一人”なのだということを視聴者に気付かせる言葉でもあるのだ。

「人間と動物」の友情を描く物語はたくさんある。「人間と機械」の友情を描く物語もたくさんある。だが、「動物・人間・機械」の友情を、対等な“三人”という関係の下に描いてみせた物語はどれほどあるだろう。けものフレンズの「けもの」は動物だけを指すのではない。動物と人間を含めた概念でもまだ足りない。生物/非生物という枠組みすら飛び越えて、何事かを想起し、互いを尊重しあえる“心”を持つ存在ならば、それは動物も人間も機械も、全員が「けもの」であり「フレンズ」なのだという、どこまでも懐の深い哲学が、この作品の奥底に悠然と流れている。

動物賛歌や人間賛歌という言葉で縛るにはあまりに壮大な、いわば“精神を有するもの全てへの賛歌”こそが「けものフレンズ」の本質であり、挑戦ではないか。僕にはこのように感じられるし、それゆえに一層この作品が愛おしく思えてならないのである。


■ 参考作品
・『けものフレンズ』 ヤオヨロズ (2017)


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