語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2019-10

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[2017-07-25]  露と山  

「人間」vs「自然」というのは多くの場で持ち出される対比構造であるし、もはや陳腐とさえ言えるかもしれない。特に近代における工業の発展に伴って、公害や環境問題の文脈において語られることの多かったテーマであり、環境保護の理念がある程度浸透した現代においては、改めて強調するまでもなくその二項は人々の頭の中にすでに備わっているに違いない。

だが、人間vs自然の対比は現代においても依然として本質的な議論を内包し、ある意味では人類にとって永遠の未解決課題として残っている。そもそもの問題は、人間と自然が完全に二分できないということに端を発する。我々が自然という語を用いるときに想定する動物や植物と同じ細胞によって構成され、同じ生命メカニズムによって日々の生活を営むのが人間であるという点に、根本的な難しさがあるのだ。

芋の露 連山影を正しうす


という飯田蛇笏の有名な句がある。

冬を目前に控えた秋の早朝。芋畑の葉には露が降りており、遠くの山々の姿は空気が澄んでいてはっきりと見える。美しい情景だ。言葉の響きがまた素晴らしい。山々でも山脈でもなく「連山」という語感が、早朝の空気とあいまって絶妙な緊張感を句全体に与えている。

しかし、景色がきれい、言葉がきれい、だけでこの句の魅力を説明し尽くせているだろうか。答えは否だ。短縮表現という窓枠の向こう側に広がる物語こそが俳句の醍醐味であり、情景や言葉選びの美しさは、むしろその物語を飾る一つの道具、あるいは一つの要素にすぎない。

この句において注目するべきは、「芋の露」と「連山影を正しうす」の対比である。前者は芋畑に入って葉を近くから観察した光景であるのに対し、後者はふと顔を上げて遠くを眺めたときに目に映った山々の景色を詠んでいる、すなわち「近景」vs「遠景」、あるいは「小さいもの」vs「大きいもの」という対比構造が描かれている。

ではこの対比構造によってどんな物語が紡がれるのか。ヒントは芋の「露」にある。日本語において露は儚いものの象徴であり、しばしばそれは人の命の比喩として用いられる。一方の「連山」は、まさしく雄大なる自然の象徴。つまりそこには「人間」vs「自然」の対比までもが重ねられているのだ。露が降りるということは、冬を予感させる寒さがすぐそこまで来ている。芋はその冬を越すための大切な食料でもある。今年もまた厳しい冬が来る。生命の儚さと大自然の威厳という両極の風景が同時に目に映る、そんな秋の早朝だった、という物語である。

しかも、そこにあるのは自然への恐怖や憎悪ではないというのもポイントだ。露というのは水の滴だから、その表面にはきっと周りの風景が映し出されており、きっとその中には遠くの連山の影もあるのではないか、という想像が広がる。「人間」vs「自然」の対比は断絶でも敵対でもなく、小さいものと大きなものには不思議なつながりがある。露の滴がもつ透明感と、連山の稜線を明確にする空気の清涼感は、生命の弱さも自然の厳しさも共に受け入れようとする作者の真摯な覚悟の比喩でもあり、だからこそ「正しうす」という表現は、単純に山がはっきり見えるということ以上に、作者自身もまた厳粛な自然の風景を前にして背筋を伸ばしてしっかりと生きていこうという晴れやかな気持ちを抱いていることを示唆する。

たった17文字の中にこれほどのドラマ性が含まれている、実に見事な句ではないだろうか。

この句に対して、「欧米では自然は敵であり、人の手によって支配すべき対象であるのに対し、日本では自然は災いとともに恵みをもたらすものであり、人間にとって共存すべき対象である」という、月並なステレオタイプを当てはめて解釈することも間違いではない。

(そのステレオタイプにしても月並とは言うものの、その認識は的を実際に射るものであり、欧米と日本の自然観には傾向の違いが確かに存在する。それは両文化における詩歌作品や庭園等の比較で、これまで多くの人が論じてきたことであろう。)

だが、日本における「自然との共存」という考え方にしても、人間と自然を並列している時点で対比概念は発生していると言える。人間を自然界から切り離し、特別枠として扱う思考は、おそらく洋の東西を問わず人間に普遍的に備わっている形式であり、そして上記の飯田蛇笏の句は、日本をも含めたその普遍的な枠組みそのものに一石を投じる、そういう先鋭性に富んだ作品ではないかと僕は思うのである。

人間と自然との対立は、言葉を変えていくと「理性 vs 本能」あるいは「思考 vs 感情」の対比にも通じていく。現代人は、欲望のままに非道徳的な行為を貪る人間に対して「本能に従うだけの動物と同じではないか」と蔑み、筋道立てて説明できないまま何かを主張する人間に対して「そんなのはただの感情論じゃないか」と嘲笑して切り捨てる。だが、理性こそ人間が生存競争のために獲得した本能の最たるものではないだろうか。思考の方向性は、他ならぬ感情という土台によって定められているのではないだろうか。

無論、非道徳であったり感情のまま生きる人間に対して僕は大手を振って肯定する気持ちはない。だが、理性的vs本能的という二項対立だけで捉え、「俺は動物とは違う、人間らしい理知的な生き方ができている」とか「論理こそが全てであり、感情に基づいた意見はすべて間違いだ」といった考えに傾倒してしまうと、いずれその根本に潜んでいる大きな矛盾にぶちあたってしまうだろう。

「人間」vs「自然」という構図はわかりやすい。だが、そこに決定的な脆弱性が存在することも我々は認識しておくべきだと思うのだ。


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