語りえぬものはかく語りき

柾葉進の徒然なる随想ブログ

2019-10

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[2014-03-14]  ループものの開拓  

物語作品の種類のひとつに“ループもの”という括り方がある。

主人公の時間がループする……もう少し正確に言うと、「世界全体の時間が巻き戻るのに主人公の記憶だけはリセットされないため、主人公はその期間を繰り返し体験することになる」という類のシナリオだ。有名でかつ古い作品例としては、筒井康隆のSF小説 『時をかける少女』(1967) だろうか。

いわゆるタイムトラベルやタイムリープという現象を扱った作品、と言い換えることも出来る。ただし何十年も昔や何百年先の未来に飛ぶのではなく、一日、一週間、あるいは一ヶ月程度の期間を文字通り「繰り返す」というのが、“ループもの”の一般的な捉え方であろう。

最近の数年間で、日本のアニメ作品において、実はこのループものが急速に発展を遂げた。アニメ業界に革命を起こしたとさえ評される、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2003)においても、一部にループ要素が取り入れられていることは、その一端と言える。しかしループものの中核にあるのは、何と言っても『ひぐらしのなく頃に』(2002-2006)ではないかと僕は思う。

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[2014-02-11]  変と不変の狭間にて  

「確かに、振り返ってみれば回り道に見えることもあるかもしれない。もっといい道があったかもしれない。だけど、それは回り道をした人間だけが気づけることなんだ。」


2007年の冬のコミックマーケットにて発売された同人ゲーム『ひまわり』は傑作として名高いが、僕にとっても様々なことを考えさせられる、実に良い作品だった。

エロゲに限らず、古今東西の物語作品の数々を見るとき、そこには人間の経験する悲しみや喜びの様々な形が描かれ、それを通じて多彩なテーマを私たちは読み取ることができる。

しかし、その多様性をさらに深く追究していったとき、そこに必ず見えてくる思想の潮流とでもいうべきものが二つある。人間の紡ぐあらゆる物語の根底にはそれら相反する二つの思想の間に生じる葛藤が存在し、人間にとってのいわば究極のテーマとして、すべての物語の原動力となっているのではないか……。自分は最近そう強く思うようになった。

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[2013-11-06]  喝采すべきスチームパンク  

SF作品の一ジャンルとして“スチームパンク”というものがあります。最初にスチームパンクと呼ばれた作品は比較的はっきりしていて、1980年前後の以下の作品です。

・ティム・パワーズ 『アヌビスの門』、
・ジェイムズ・P・ブレイロック 『ホムンクルス』、
・K・W・ジーター 『Morlock Night』『悪魔の機械』

命名は3人目のK・W・ジーター自らによるもので、これらの作品に共通する世界観に名称を付けようということで、“スチームパンク”という言葉が提案され、やがて一般に普及したのです。(既にSF作品の一ジャンルとして認知されていた“サイバーパンク”をもじったものと言われています。)

またこれらの作品は、有名なH・G・ウェルズの『タイム・マシン』や、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』といった名作文学から大いに影響を受けているという点で、それらの作品もスチームパンクと称されるようになりました。 以来その世界観に沿った作品が次々に生まれ、(あるいは過去の作品が再定義され、)SF文学の中において一つの巨大な潮流を形成したのです。

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[2013-10-21]  人は一人で生きるもの  

「人は一人では生きていけない」という陳腐な言葉があるが、今の時代、実は一人で生きていくこと自体にそれほど苦労は伴わない。金銭を得る手段さえあれば、あとは大抵のことはどうにでもなる。何らかの情報が必要であれば人に聞くよりもネットで調べた方が早いし、自炊能力がなかったとしても食事はその辺のコンビニでも十分調達可能だ。

もちろん無人島で生きるのとは違って厳密には一人ではないわけだが、要するに「特定の誰かと深く関わらなくてもそれなりに生活していける」というのが現代社会の一つの特徴である。

そうなると、むしろ一人のほうが気楽であるといった具合に長所が勝ってきて、次第に「どうしてわざわざ他人と関わらなくてはいけないのか」という問いが生まれてくる。誰かと深く結びつくことはトラブルやストレスの元となり、下手をするとそれによって深い痛手を負うこともある。そういった物理的・心理的な負担を抱えてまで他者と関わることに一体何の意味があるのか。そういった現代人特有の疑問を代弁してくれているのが、D.O.作のエロゲ『家族計画』であると言えるかもしれない。

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[2013-08-29]  考える葦の輝き  

「アメイジング・グレイス」(Amazing Grace)という名曲がある。アメリカをはじめとして世界中で愛されている曲というイメージだが、作詞はイギリス人牧師のJohn Newton氏である。

人生の危機的状況と、それを幸運により乗り越えたという経験を契機として信仰に目覚めた彼が、自分の重ねてきた罪深い行為を悔いながら、それでも自分を許してくれた神への感謝を歌にしたものが「Amazing Grace」だという。作曲者は不明だが、その荘厳でありながらも切なく美しいメロディも相まって、クリスチャン以外の人の心にも響きかける、普遍的な魅力を持った賛美歌となっているように感じられる。

日本では本田美奈子氏が歌ったアルバムが有名だが、2003年のドラマ 『白い巨塔』 の主題歌として使用されたヘイリー・ウェステンラ氏の歌声も、多くの人の耳に残っているのではないだろうか。

そしてまた、エロゲをたしなむ人々にとっては、2007年発売のエロゲ 『そして明日の世界より』 のエンディングテーマ曲としても、おそらく強く印象に残っているのではないかと思う。

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[2013-05-07]  キャラクターの個性獲得  

美少女ゲームを一つの文化的な作品として見るとき、多くの場合(特に昔の作品)に当てはまる欠点に「女性キャラクターの性格および言動が、作品という形式から独立できていない」というのは前々から自分も感じているところではありました。

どういうことかというと、簡単に(そして極端に)言えば女性キャラクターが「我々にとって都合の良い女の子」でしかないということです。

例えば、ある美少女ゲームにおいてAとBという二人の少女が主人公に少なからず好意を抱いてるものとします。こういう場合、たいてい物語途中に選択肢があり、その選び方によって主人公がAと結ばれるか、Bと結ばれるか等にルート分岐します。そして、たとえばAを選んだ場合、たいてい話の焦点はAのみに当てられ、Bはあんまり出てこなくなったり、Aと主人公との恋を無条件に応援したり見守ったりする役回りになってしまうことが多いわけです。

Aと主人公とは相思相愛になれてハッピーですが、「それじゃBの気持ちはどうなるんだ?」って感じですよね。つまりここではBという少女の意思が都合良く無視されているわけです。「主人公はAとくっつくんだから、Bは大人しく引き下がっておいてくれ」とでも言わんばかりの、作品の都合という圧力下での、Bに対するいわば意思の調整が行われている。

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[2013-02-27]  100時間の果てに  

僕はあくまで物語を求めてエロゲをやっているので、システムとしてはいわゆる“紙芝居”以上のものはそれほど求めません。むしろあまりゲームとして凝っていると身構えてしまう傾向にあります。ですが、ゲーム性に夢中になって全力でプレイしたエロゲというのも存在します。

その一つであり、シナリオとしても一級品であった作品こそが、戯画の『BALDR SKY』です。

そもそも戦闘系のエロゲは昔から存在し、RPG、アクション、戦略シミュレーション等々、女の子と戦って、勝利した“ご褒美”としてHな画像が・・・という古典的なエロゲも多くあります。しかし、戦闘系エロゲのスタイルも時代とともに多様化が進み、あくまでシナリオが中心で、そこに敵との戦闘シーンが挟まれ、勝利することで話が進んでいく、というタイプも生まれてくるわけです。そこではエロ要素は戦闘と直接関係なく、むしろシナリオに深みを与える描写の一つという位置づけで、比較的あっさりたものになります。例えるならば映画におけるベッドシーンのようなものです。

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[2013-01-08]  死を描くということ  

人が死ぬ物語というものには注意しなくてはならない。

どういうことかというと、たとえそれがどんなに感動作で、どれだけ涙がこみあげてきたとしても、誰かが死ぬ話である以上、自分は簡単に「良い」という評価を下したくないと思っているのだ。

悲しいからとか暗いからとか、そんな感情的な理由ではない。重い話題から目を背けて、ただただ平和で幸せな物語ばかり読んでいたい……と、そういうわけでも当然ない。死というのは、人間誰しも避けて通れない最大のテーマだ。だから多くの物語においてそれが描かれるのは自然であるし、むしろそれを描かずして真に奥深い作品というのは存在しないとさえ思う。

しかし、いかんせん死というテーマは、重すぎる。自分の死とは、自分という存在そのものの消滅であり、他人の死とは、その人とはもう二度と会うことが出来ないという永遠の別離である。死は、その絶対性ゆえに決して安易に扱われてはならないテーマだというのは改めて言うまでもないことだろう。

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[2012-12-18]  ココロのカタチ  

 もし私が一人の心を傷心から救ってやることができれば、
 私の生きることは無駄ではないだろう。
 もし私が一つの生命の悩みを慰めることができれば、
 あるいは一つの苦痛をさますことができれば、
 あるいは一羽の弱っている駒鳥を助けて
 その巣の中に再び戻してやることができるのなら、
 私は無駄に生きてはいないであろう。


19世紀のアメリカの詩人、エミリー・ディキンソンによる一篇です。自分が他の誰かを救ってあげることができるなら、自分の人生はきっと有意義である。とても心優しくて温かい詩だと思います。

ですが、この考え方には注意が必要だと僕は考えます。なぜなら、それは逃避でもあるからです。自分自身の人生の価値を、他の生命に責任転嫁させている、とでも言いましょうか。一方で、この世界の聖人や道徳者と呼ばれる人たちは、誰もがきっとこのエミリー・ディキンソンの詩に共感するでしょう。人間は他者のために生きてこそ、初めて意味が紡がれるのだ、と。

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[2012-10-29]  選択肢を捨てた美少女ゲーム  

いわゆるゼロ年代(2000-2009)の美少女ゲーム史が他の年代と比べて最も特徴的である点は、同人ゲームが商業界に対しても多大な存在感を示したという点にあると言えるのではないだろうか。言うまでもなく、僕の念頭には『月姫』と『ひぐらしのなく頃に』という二つのタイトルが浮かび上がっている。いずれも美少女ゲームそのものの在り方に及ぼした影響は計り知れないものがあると僕は考えているが、ここでは特に『ひぐらしのなく頃に』という作品の意義について、一般の美少女ゲームが持つ「選択肢」システムと絡めながら、少し考えてみたい。

『ひぐらしのなく頃に』という作品の鍵は「昭和58年6月の雛見沢」に生じうる様々な可能性を複数の並行世界(パラレルワールド)として描くことで、プレイヤーに物語を多角的に捉えさせることにあるというのは自明のことだろう。しかし考えてみれば、このようないくつもの“ifの世界”を用意する手法は、実はそれほど珍しいものではない。

確かに小説、漫画、アニメ、映画などのメディアにおいては、通常は一本道のシナリオのみが描かれ、「こんな場合もありうる」といった本筋と矛盾するような話をあえて語ろうとする作品はまれであろう。だが、ある一つのメディアにおいてだけは、一本道のシナリオに縛られることなく、話が途中から様々に分岐していくことが容易に可能なのである。そのメディアとは、もちろん「美少女ゲーム」である。

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